私はいのちのパンです(ヨハネの福音書6章30~40節)

0 はじめに

イエス・キリストとはどのような存在なのでしょう?聖書はその様々な特質を、読む人にわかりやすく伝えています。今日の箇所は「いのちのパン」と紹介しています。それは私たちに永遠のいのちを与える存在としての、イエス・キリストです。

1 いのちとは?

この時期に我が家の畑には夏野菜が植えられますが、その中にゴーヤとカボチャがあります。毎年収穫した物から種を取っておき、その翌年に種から育てていくのです。一見するとなんてことのない一粒の種から力強く芽が息吹き、成長していく姿は、収穫に匹敵する感動と喜びを与えてくれます。「いのち」とは目には見えませんが、それが存在する時、確かなしるしを表すのです。

イエス・キリストは「私がいのちのパンです」と語り、その内に確かないのちを所有しておられることを私たちに教えてくれます。

2 飢えと渇き

いくら目の前に美味しそうなパンがあっても、お腹が一杯であれば、それに手を伸ばすことはほとんどありません。パンを食べるものに必要なものは「飢え」といってもいいと思います。
しかし、私たちは自分の飢えや渇きを実際に理解できているのか?ということを考える必要があります。

私は神学生の時、長崎へ夏の伝道応援に行きました。九州の夏は東北のそれとは比較にならない暑さであった。陽射しはレーザービームのようであり、触れただけで火傷をするような感覚がありました。しかし私はその暑さを本当には理解できておらず、教会案内を地域に配る中で、いつの間にか脱水症状を起こし、歩けなくなってしまいました。

水以外にも体には様々な栄養素が必要です。鉄分が足りなければ貧血になり、タンパク質が不足すれば筋肉がやせ衰え、糖分が足りなければエネルギー不足を起こします。

3 イエス・キリストの招き

私たちが気付いていない、いのちに対する「飢え」や「渇き」をイエス・キリストはご存知です。そして、そんな私たちの飢えや渇きを満たすために地上に来て下さいました。

「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35節)

イエス・キリストが語られる「飢え」や「渇き」があるのだと認めることは、私たちの信仰にあって歩み出すための第一歩です。そのような私たちは、そして「いのちのパン」としてイエスを迎える者として、永遠の命が与えられるのです。

(2023年5月14日 高橋 拓男 師)

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