忍耐と赦しそして愛を着る(コロサイ人への手紙3章13~14節)
1 互いに忍耐すること赦すこと
パウロはコロサイ教会の人々に、「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。」 と勧めます。パウロがこの2つについて他の5つの徳目と分けているのは、このことがとても難しいからです。パウロはこの2つについては説明を加える必要性を感じました。私たちは、忍耐し、赦すことに関して白旗をあげるしかないものなのです。
2 主があながたを赦してくださった。
赦すことの出来ないキリスト者に対して、パウロは13節後半で、「主があなたがたを赦してくださったように,あなたがたもそうしなさい。」と語ります。イエスさまは,忍耐出来ない、赦すことのできない私たちのために十字架にかかって下さいました。忍耐できない、赦すことのできない私たちを赦し,愛してくださったのです。裁きの座に自分を置いてしまう私を、神さまの愛に留まることができない私を,主が赦してくださいました。ここに、私たちの希望があります。 例え、私たちの教会に不和があり、互いに許し合えない状態が続いていたとしても、例え、教会員の側では揺ることに白旗を揚げたとしても、主は私たちの教会を愛して下さる、赦してくださる。そのことを皆が信じることからスタートしたいと思います。
3 すべての上に、愛を
さらにパウロは、「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」といいます。ここで使われている愛は、ἀγάπη(アガペー)です。愛がどのようなものかが分かる代表的な御言葉は、ヨハネの第一の手紙3章16節です。「キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。ご自分のいのちを捨ててくださいました。」神の子イエスさまがご自分のいのちを捨てるほど私たちを価値あるもの大切な存在として下さいました。それがἀγάπη(アガペー)と言われている愛です。私たちは、は、赦すということにおいて愛することについても、全く白旗をあげるしかない者です。白旗で私は、どれだけ兄弟に対してその人の価値を示してあげることができるでしょうか。しかも、その人のために自分のいのちを捨てることができるでしょうか。まったくできないことを認めるしかありません。ですから、パウロが14節で言っている、「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。」という御言葉に対しては降参するしかありません。自分の愛のなさを認めるしかありません。自分は人を愛することのできない存在なのです。
4 愛を着なさい
パウロはあなたの力で愛しなさいといっているのではありません。「愛を着なさい」といいます。
自分の肉は人を愛することができません。しかし、私たちは、その古い人を脱ぎて、イエスさまという新しい人を着ることができます。それは、キリストを信じ、キリストに委ね、キリストをわが全てとすることです。そのとき、私たちを愛してくださるイエスさまがともにおられることが分かります。このキリストの愛が私たちにせまってきます。「愛は結びの帯として完全です。」という御言葉が、アーメンといって受け取ることのできるのです。
(2023年6月11日 石原 俊一 兄)
素晴らしいですね。
ありがとうございます😊