いつでも弁明できる用意を(ペテロの手紙第一3章13~16節)

1 希望について説明を求められる「生き方」

「伝道」について考える時、私たちは「どう語るか」に注目しがちです。しかし、ペテロの手紙が大切にするのは、どう語るか以上に、どう生きるかという「生き方」でした。この手紙は日本のようにクリスチャンの少ない異教社会で生きる信仰者たちに向けて書かれました。3章13-16節だけを読むと、特に「弁明できる用意をしていなさい」(15節)とあり、一見して語ることの大切さを語っているように見えます。しかし、手紙全体で強調されているのはむしろ「生き方」です(例えば2章12節、18節、3章1-2節)。「弁明」とは、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人」(15節)が起こされるような「生き方」が前提になっているのです。ですから「伝道」で問われるのは、まず私たちの「生き方」なのです。

2 心の中でキリストを主とし、聖なる方とする「生き方」

しかし、この箇所で語られるのは、私たちの品行方正で完璧な「生き方」ではありません。特に3章13-15節で強調されているのは「心の中でキリストを主とし、聖なる方とする」(15節)生き方です。この対極として語られるのは、人々の脅かしを恐れたり、おびえたりする生き方です。つまり、ペテロが語るのは私たちの視点の問題です。誰の目を気にして生きるのか、どこを見ているのかです。そしてペテロは、人の目を気にして臆病になったり、人に見られるために立派な行いに励んだりするのではなく、ただ、キリストに目を向けて生きることを励ましているのです。

そして、そのような「生き方」とは、イエス様を指し示す生き方です。自分の「きよさ」ではなく、こんな私の罪のために死んでくださったイエス様という「希望」を指し示すのです。この「希望」と同じ言葉を用いて、1章3節では、キリストによって新しくされた事実が「生ける望み」と表現されています。この「希望」なるイエス様を指し示すことこそ、私たちの「生き方」です。

3 柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明する

そして、そのように生きる時、私たちに弁明の機会が訪れます。しかし、そこで大切なのは、雄弁さや知識量ではありません。ペテロが注意を向けるのは、語る私たちの態度です。「柔和な心」「恐れ」「健全な良心」(16節)…求められるこれらは、私たちが語る時に忘れやすいものです。私たちは信仰について問われると、恐れを抱いたり防衛的に反応したりして、つい強い口調になってしまうことがあります。しかし、ペテロはキリストを見よと語ります。自分を捨て、へりくだり、十字架にかかってくださったキリストの姿です(参照2:21-25)。指し示す「希望」がイエス様なら、私たちもまたイエス様のようにへりくだり、神を恐れつつ、信じるところを語る者でありたいと思います。その時、キリスト者の生き方をののしっていた人たちが恥じるくらいに(16節)、疑いようのないかたちで、そこに神様の真実が表されるのだと聖書は約束しています。この約束を信じて、今日もこの場所から遣わされ、それぞれの場所で「生き方」を通して証し、語る者とされていきましょう。

(2023年6月18日 永井創世 師)

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