失われた息子たち(ルカの福音書15章20~32節)
1 私と放蕩息子のたとえ
私が信仰を持ったのは大学4年生の時でした、きっかけはKGK春季学校で聞いた「放蕩息子」のたとえ話。父から受け継いだ財産を放蕩で使い果たした弟息子が、寛大な父に赦され、受け入れられる物語です。この弟息子の姿が自分と重なり、寛大な父が示すキリスト教の神を信じる決心をしました。
2 たとえ話の中心は
このたとえ話の後半には真面目な兄息子の話も出て来ますが、私が信仰を持った直後は「付け足し」くらいに捉えていました。不真面目な弟を持って、この兄も大変だなと・・。牧師になってからも大きく変わることはなく、豊かな神の愛と赦しを表す弟息子の話を中心に説教し、兄息子の話を深く話すことはほとんどありませんでした。
しかし、実はこのたとえ話の中心は弟ではなく兄なのです。その根拠の一つは、この話がパリサイ人・律法学者に向けて語られていること、もう一つは「弟息子」の話は完結しているのに、「兄息子」の話は中途半端に終わっている点にあります。つまりこの話全体は、兄息子の姿を踏まえた上で「これからあなたはどう生きるか?」という問いで終わっているのです。
3 兄息子の本質
兄息子の特徴。それは一見すると、「父親に忠実な息子」という評価になります。しかし放蕩息子である弟が父のもとに帰ってきた時、兄の心の奥底に隠されていた本性が明らかになります。それは「父に赦された弟を赦せない」という姿でした。それまで兄は全く問題のないように見える存在でしたが、放蕩息子という光を受けて、真の姿が浮かび上がるのです。
4 人を赦すことのできない兄息子
「人を赦せない姿」それは自分が借りた莫大な借金を帳消しにされたのに、自分が貸した僅かな借金は容赦なく取り立てる人の姿でした(マタイ18章)。「我らに罪を犯す者を赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という祈りを真に理解していない姿、帰ってきた弟を歓迎するのでもなく、励ましの声をかけるのではなく、その祝いの席にも加わろうともせず、遠く冷たい目で弟を裁いている兄の姿があります。
5 信仰が問われる私たち
昨日会津の教会に礼拝用に立派なお花が届きました。大熊町出身の方が、以前ご両親の葬儀を教会で行ったことがあり、それから5年以上も毎月お花を贈って下さる愛と真実に満ちたご婦人です。私はしばしばクリスチャンとして、このような方々に何を証できるのかと考えてしまいます。
私たちも問われています。「自分の罪がゆるされて良かった」という信仰に留まっていないか。周りの者を赦し、平和をつくる者となっているか。弟、そして兄の姿をも越えて、父のように成熟した者と変えられているのか。このたとえ話を、もう一度自分の信仰を確認する機会としましょう。
(2023年6月25日 高橋 拓男 師)