クリスチャンと罪(ヨハネの福音書16章33節)
0 はじめに
昨年に続いて今年も「成熟を目ざして」というテーマで聖会を持つことになりました。1回目の今日は「クリスチャンと罪」について。このことに聖書的な理解と整理がついていくことが成熟の土台となります。限られた時間ですので、イエス様が語られた一つのお言葉に耳を傾けることにしましょう。
1 「世にあっては」
「世とは」、弟子たちが残され、彼らがこれから生きて行く場所です。そこには「苦難があります」と言われました。「悪」が存在する場所です。(続く17章でイエス様は弟子たちのために、「彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」15節と父なる神様に願い祈っておられます。「悪い者」とは〔あるいは「悪」〕と註があります。)世に来て下さったイエス様は確かに救いの道を開いてくださいましたが、世は天国ではないのです。
2 「苦難があります」
イエス様はどのような苦難を見ておられたのでしょうか。〈外側からの苦難〉弟子たちに襲い掛かってくる迫害の嵐を見ておられたでしょう。迫害だけでなく彼らの信仰を揺さぶる「様々な試練」(Ⅰペテロ1:6)を見ておられたでしょう。〈内側からの苦難〉傲慢、頑なな自我、世と世の欲(Ⅰヨハネ2:15~17永遠の神ではなくやがて過ぎ去っていく目に見える世界に引き込もうとする力)に傾いていく心。こうしたことに直面しないクリスチャンがいるでしょうか。十字架による罪の赦しは確かです。神の約束です。そのことを心から信じ感謝します。ですが、同時に心の現実として、〈罪の性質〉とも言うべきものがあること(支配されてはいないとしても)を否定することができません。私たちは罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらにして罪を負っている(ローマ5:12「一人の人によって罪が世界に入り、…」)というのが聖書の伝えていることです。
3 「しかし、勇気を出しなさい」
「しかし」とイエス様は言われます。「勇気を出しなさい」と励まして下さいます。「わたしはすでに世に勝ちました」。十字架の勝利です。それは最も低く最も弱くされたところにありました。
4 終わりに
ルターはこう言っています。「汝の敵のただ中に神の支配がある」。世にある私たちです。苦難があり、原罪(罪の性質)の影響下にある私たちです。私たちの成熟は、「世にあって」、そのただ中で全く神に信頼し、十字架により頼んでいくことです。
(2023年7月9日 舘脇暁美 師)