祈りの裏側(詩篇22篇1~5節)

0 はじめに

イエス様が十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46、マルコ15:34)と叫ばれた祈りは、詩篇22篇からの引用です。究極の苦しみの中で詩篇22篇の言葉が出てきたことは、主がこの詩を暗唱されていたことを示唆します。私たちは詩篇22篇全体をもう一度見る中で、必然的に十字架上の祈りの中に含まれている3つの祈りの要素、そして祈りの奥深さを学びたいと思います。

1 自己意識

「私は虫けらです」聖書の中で、虫けらという言葉が使われているのはここだけです。それは詩篇作者のうちにある「自分は何者であると感じているか」を示す言葉です。実は私たちの内にあって、祈りになりにくい思い、それが自己意識です。それは深いところに隠されたままであることがほとんどですが、しかし、それすらもこの詩篇作者は祈りとして言葉にしているのです。十字架の上で神の御子である方も、このような意識をお持ちだったのではないでしょうか。主はご自分の弟子たちに裏切られ、罪人と一緒に十字架に架けられ、聴衆に嘲られ、ローマ兵に侮辱されました。「わが神、わが神」と叫ばれた主の祈りには、「私は虫けらです」と感じる深い心の痛みが存在していたのではないでしょうか。同時に私たちが自分自身をどのように感じているのかも、祈りの深い構成部分として、非常に大切なものであることを教えられます。

2 自分の置かれている状況

「多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。 彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。」(12,13節)私たちがどのような状況に置かれているのか、それもまた祈りにくい要素なのかもしれません。状況そのものだけでなく、それを自分自身がどのように感じ、見ているのかもそのまま祈りとして献げられています。特にどのような悪意にさらされているのか、この詩篇作者は言葉にしています。それはイエス様も同様でしょう。

3 自分の感情

「心はろうのように私のうちで溶けました。」この詩篇作者は自己意識、現在の状況を踏まえた上で、自分の心の奥底にある感情全てをありのままにさらけ出しています。十字架上の主もこのような感情を持ったことでしょう。感謝や喜びだけでなく、否定的な感情もそのままに祈ることがゆるされているのです。

4 終わりに

自己意識、状況、感情を神の前に明らかにする時、私たちの祈りは変えられていきます。「会衆の中であなたを賛美します」(22節)、「主は国々を統べ治めておられます。」(28節)詩篇作者が大胆に主を賛美し、信頼する者へと変えられていったように、主も「わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」「完了した」神に全幅の信頼を置いた祈りへ導かれていったのではないでしょうか。私たちも全てを神の前に語り尽くすものとなり、祈りにおける成熟へと導かれたいと願うのです。

(2023年7月16日 高橋 拓男 師)

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