兄息子への愛(ルカの福音書15章25~32節)
1 兄息子の不満と父の愛
兄息子は一生懸命父に仕えてきました。弟息子は放蕩の限りをつくし財産を食いつぶしました。それなのに、父は自分が受けたこともない祝宴を設けました。兄息子は、どうして帰ってきた弟のために設けるのかと自分の不満を父にぶつけました。
兄息子の文句に対して、父は、『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。と応えました。「子よ」という言葉はギリシャ語 では、τέκνονといいます。この言葉には、子に対する親愛の情がこもっていました。
2 パリサイ人や律法学者に対する神の愛
このたとえでは、弟息子は取税人や罪人を指しています。父は神さまです。兄息子はパリサイ人や律法学者を指しています。父なる神さまは、パリサイ人や律法学者に対して、親愛の情を込めて「子よ」と呼びかけました。イエスさまとパリサイ人や律法学者は対立関係のように見えます。ところが、この箇所で父は、親愛の気持ちを込めて彼らのことを「子よ」と呼んでいるのです。
たとえの中で父は、「おまえはいつも私と一緒にいる」といいました。それは、パリサイ人や律法学者を愛する神さまが彼らとともにいて、絶えず恵みとあわれみを示しているのに、彼らがそのことに気付かないからです。彼らは、律法に示された戒めを懸命に守ろうとしました。しかし、兄息子が奴隷のように父に仕えたように、律法によって不自由になり、律法の奴隷のように歩んでいました。彼らを愛してくださる神がいつもともにいるということに気付かなかったのです。
たとえの中で、父は、兄息子に、「私のものは全部おまえのものだ。」といいました。それは、神さまの側では、パリサイ人や律法学者を愛し、望むものは与えようとしていますのに、彼らが求めようとしないからです。、兄息子が父と共にいる恵みを楽しみたくて祝宴を開こうとしたら、父は喜んでその場を設けたでしょう。しかし、兄息子は奴隷のようにただ、父に仕えていました。父の愛が分かりませんでした。子どものように父に求めることも出来なくなっていました。それが パリサイ人や律法学者の姿だったのです。
イエスさまのパリサイ人や律法学者への厳しい言葉は、愛する子どもへの諭しの言葉でした。
もし、兄息子が悔い改め、神の愛に帰ってきたら、もし、パリサイ人や律法学者が神さまの愛を知り神様のもとに帰ってきたら、父なる神は弟息子と同じように、大いに喜び祝った事でしょう。父親は兄息子を愛し、兄息子の帰還を待っています。
3 私たちに注がれる神の愛
神さまの愛は、私たち一人一人に注がれています。弟息子のように、神さまから目に見える形で離れてしまい、戻ってくる人がいるでしょう。神さまはその人を憐れみ愛してくださっています。そして、その帰還を心より喜んでくださいます。また、兄息子のように体は教会にいても、心は神様から離れてしまっている人もいるかもしれません。「~しなければ」「~でなければ」と聖書の言葉や教理に捕らわれて不自由になっている人です。神さまの愛を忘れ、自分や人を責めたり裁いたりする人です。神さまはその人をもあわれみ愛してくださいます。そして、その人が神さまのもとに戻るとき、神さまは、本当に喜んでくださいます。
ですから、もし、私たちの身近にパリサイ人や律法学者のような信者がいたとしたら、彼らへの眼差しにも気をつけたいと思います。直ぐに対立することではなく、神様の眼差しをもつことです。そこに、神様の愛の出来事が起こることを祈り願っていきたいと思います。
神様は、私たちにも「子よ」と親愛の情をもって呼んでくださり、「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」と語ってくださいます。この兄息子への愛を、神さまの愛を心から信じて、神様とともに歩んできたいと願います。
(2023年7月30日 石原 俊一 兄)