私の助けは主から来る(詩篇121篇1~8節)
1 助けて下さる主
巡礼者である詩篇の記者は旅の途中です。たくさんの困難に直面し,立ち止まりました。そして,目の前に立ちふさがる大きな山々に向います。山々に向かって目を上げます。そのような中で,巡礼者である詩篇の記者は,思わず言わずにはおれません。「私の助けは どこから来るのか。」と。
私たちは天の御国に向かって歩み続ける者たちです。その私たちに,大山のような出来事が,問題が私の行く手をふさぐことがあります。私たちも,問題という「山に向かって目を上げ」るのです巡礼者はいいます。「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」と。しかし、どんなに大きな山が,どんなに大きな問題が行く手をふさいでも,神さまは,天地を造られた全能の神さまです。この山は問題ではありません。なぜなら,私たちには,山どころか,この地球,そして全宇宙を従えていらっしゃる神さまがいてくださるからです。私たちにとって信仰と関係ないものは一つもありません。大きな山でも小さなな山でも,その山を乗り越えるために,主なる神さまからの助けがくることを信じることが大切です。一歩一歩が神さまの助けをいただく歩みです。
2 守って下さる主
3節から8節の中に「守る」という言葉,ヘブライ語の動詞では「シャーマル」(イシュマレ)が6回も出てきます。この言葉は,「保護する,守る,見守る,世話をする」という意味ですが,語根は「注意をはらう」という」意味です。神さまは,神さまを信頼する人を保護されます。巡礼者である私は,あなたに,主なる神さまはどんな危険の中を歩んでも「守って下さる方」「注意を払ってくださる」であることを伝えようとしたのです。野宿の夜,巡礼者は大きな不安の中にいたと思います。しかし,大丈夫です。主なる神さまは神さまに信頼するあなたを命の危険から守って下さる方,主なる神さまは,居眠りすることなくあなたを守ってくださる方だからです。
7節と8節の文頭に יְֽהוָ֗ה יִשְׁמָרְ (アドナイ、イシュマレ)という2つの言葉が続きます。アドナイは主です。イシュマレは守るという言葉です。7節,8節で主は守られる,主は守られる,と主の守りを強調しています。私たちは、この主の守りを心にとめたいと思います。
3 キリストこそ「私の助け」
しかし,私たちは,そのように分かっていてもどうすることのできない自分の姿を見せつけられることがあります。ときには,主の助けや主の守りを信じることが出来ずに自分で取っ組んでしまうことがあります。ある人は、「罪とは神を信頼せず自分でやること」といいました。私たちの一番大きな山。それは、私自身の罪です。私たちは、自分の罪をどうすることもできません。自分の力で罪から勝利することはできません。それが私の実態です。そして、天の御国を目指して歩めば歩むほど、自分の罪が露わになります。いかに自分が神さまから離れた存在であるかが明らかになります。しかし、詩篇の言葉は聖書の言葉です。詩篇121篇は神さまの言葉です。そして,詩篇はイエスさまの祈祷書です。今日お読みした詩編121篇の言葉をそのままイエスさまは私たちとともに神さまにむかって語ってくださっています。
(2023年10月22日 石原 俊一 兄)