わがたましいよ 主をほめたたえよ (詩篇103篇1~5節)

1 「わがたましいよ」

「わがたましいよ」と始まります。これは自分自身への呼びかけです。皆さんは自分の心に向かって呼びかけることがありますか。「たましいよ」とありますから、ちょっとした呼びかけではなくて、心の奥深いところに向かっての呼びかけです。片手間にではなく、立ち止まって、他のことを脇に置いて、「わがたましいよ」と呼びかけているのだと思います。

2 「主をほめたたえよ」

自分のたましいに向かって何と呼びかけていますか。「主をほめたたえよ」。神を思い起こし、神をたたえよと呼びかけます。教会ではいつも神様をほめたたえる讃美歌が歌われます。老いも若きも、上手も下手もなく皆で歌います。嬉しい時や気分の良い時だけではありません。苦しみの中、悲しみの中で神様に心を向けます。けれど、人生の旅路の中にはあまりの苦しみで神様をたたえることができない時もあります。悲しみが深くて涙しか出ない時があります。この詩の作者であるダビデもそうでした。「死の陰の谷」としか思えない所を通らなければなりませんでした。けれどそうした苦しみの後に再び彼は「わがたましいよ」と呼びかけ、「主をほめたたえよ」と自分の心の奥深くに向かって語りかけるのでした。

3 「私のうちにあるすべてのものよ」

クリスチャンとは、十のうち一神様を思う人ではありません。十のうち五でもありません。十のうち十、「私のうちにあるすべてのもの」をもって神様に心を向けます。それは他の事をないがしろにするということではありません。心のすべてをもって神様に向かうことによって、そこが源泉となって、与えられた人生を精一杯生きることができるようになります。自分のためだけでなく、社会の中で、隣り合う人々との間で愛に生きることを願います。もしも神様に心のすべてを向けることなく自分の中から絞り出すのであったとしたらすぐに尽きてしまいます。

4 「聖なる御名をほめたたえよ」

どうして私たちは心のすべてを神様に向けることができるのでしょう。神様が聖なるお方だからです。聖なるとは、〈悪や不正、偽りやごまかしが一切ないことです。〉〈愛に満ちているということです。〉〈良きことだけをなさるということです。〉このどれ一つが欠けても「聖なる」とは言えません。聖なる神様は私たちにどんな良きことをしてくださったでしょう。3~5節に記されています。すべての咎の赦し・すべての病の癒し・いのちの贖い(救い)です。どんなに健康でも赦しがなかったら、どんなに富んでいても心に癒しがなかったら、どんなに良き人生であったとしても死の後に何の希望もなかったら、それどころか永遠の滅びを受ける他ないのだとしたら。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は…あなたの一生を 良いもので満ち足らせる」。神様はこれらの良きことをなすために、実に、御子イエス様の十字架というはかりしれない大きな犠牲を払ってくださいました。それほどに私たちを愛されるのです。与えられた赦し、癒し、いのちの尊さを思う時、感謝せずにいられるでしょうか。神様をほめたたえずにいられるでしょうか。「わがたましいよ 主をほめたたえよ」。

(2023年10月29日 舘脇 暁美 師)

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