耕地を開拓せよ(ホセア書10章12節 )    

1 繁栄の裏にあった現実

ホセアの時代のイスラエルは表面的には非常に豊かで栄えていた一方で、偶像礼拝が横行し、霊的には落ち込んでいました(ホセア書10章1節参照)。人間にとって「豊かさ」は落とし穴です。人は満たされている時には神様を必要としません。また、人は豊かになればなるほど、もっと得たいと思います。あるいはそれを維持するための不安や恐れにつきまとわれます。当時の民が偶像礼拝に耽った理由もそうでした。有名な偶像「バアル」は豊穣の神です。民はまことの神だけでは満足できず、不安や恐れに駆られてバアルも礼拝したのです。また、この時代、民は自分の力に頼るようにもなっていました(ホセア10章13節参照)。神に頼るよりも、自分の力によって安心を得ようとしたのです。
これは私たちの姿と重なります。現代に生きる私たちも多くの豊かさを享受しています。しかし、それらは祝福とならず、神様から目を逸らさせ、私たちはいつの間にか生活の中でさまざまな不安や恐れにつきまとわれていたりします。そして、神様だけでは満足できず、他の何か(偶像)や自分の力で平安を得ようとしてしまいます。

2 正義の種を蒔き、誠実の実を借り入れ、耕地を開拓せよ

しかし、聖書は語ります。10章12節前半「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。」…イスラエルの歴史はまさに耕地の開拓の歴史でした。エジプトから救い出されて約束の地に入り、開拓しながらあゆんできました。神様はそんな日々を思い返させ、神様を第一とする生活に戻るよう促しています。「正義」「誠実」は、神様の契約に対する真実さを表す表現で、ただ神に信頼することが促されています。
さらにここでは「耕地を開拓せよ」といういうチャレンジがあります。「開拓」は直訳では「割る」という言葉です。秋から春にかけて乾季を経験するイスラエルでは、耕地は岩のように堅くなります。「開拓」とは、そんな大地に鋤を入れて「割る」必要がありました。しかし、そのような一見作物が育たないような場所、つまり、神様の祝福が期待できないような場所に、信仰をもって向き合うようにと聖書は語るのです。
私たちの生活の中には、信仰をもって向き合うことが難しい領域があります。祝福を期待できない領域、祈り疲れた領域、そもそも信仰と無関係だと思ってきた領域、避けてきた領域…。しかし主が求めるのは、そこで主の祝福を信じて行動していくことです。神様は、そのように応答する信仰者に祝福を約束してくださっています。

3 今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。

10章12節後半「ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」…イスラエルには、乾季の終わりと春の訪れを告げる「先の雨」と呼ばれる特別な雨があります。この雨が豊かに降れば降るほど、草木が茂り、その年の作物が良く育つそうです。ユダヤ人はこの雨を心待ちにしながら耕地を耕すそうです。私たちも、祝福をもたらす雨を主が降らせてくださることを心待ちにしつつ、それぞれに与えられた耕地の開拓に生きたいと思います。それも聖書hは「今が主を求める時だ」と、「いつか」ではなく「今」と語ります。今日も私たちを愛し、私たちを待ってくださっている神様に応答し、開拓者としてそれぞれの場所へと遣わされていきましょう。
(2023年11月5日 永井 創世 師)

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