咎に咎を(詩篇69篇28節~30節)
1 詩人の悲しみ、苦しみ
詩人は、「どうか 彼らの咎に咎を加え…」(28節)と祈ります。咎という言葉の言語には、曲がっている、ゆがんでいるという意味があります。ですから、この言葉は、悪や不義と訳されます。また、罪の結果受ける罰という意味もあります。直訳すると、「あなた(神さま)は彼らの悪に対して悪を加えます。」又は「あなた(神さま)は彼らの悪に対して罰を与えます」となります。
詩人は「彼ら」と呼ばれる人々によって、心底苦しませられ、つらい思い、悲しい思いをさせられました。死の力をもつものを表す水が喉のまで入ってきているといいいます。(1,2節)詩人を憎むもの、「彼ら」がとてつもなく多いこと、私の敵が強いことを告白します。(4節)詩人には憎まれる理由がありません。しかも、彼らの行動は奪わなかった物さえ返さなければならないほど理不尽です。神さまを信じる詩人は神さまの故にそしりを受けています。辱めを受けています。しかも、詩人は自分の兄弟からものけ者にされよそ者扱いされました。彼らは、詩人に毒を与え、渇いたときには酢を飲ませました。
2 真実の祈り
詩人は、「彼らの咎に咎を加え…」(28節)と祈りました。しかも、彼らがいのちの書から消し去られますように。(29節)とまで祈りきります。ボンフェッパーが指摘したとおりに、「詩篇はイエス様の祈祷書」です。詩人が詩篇を祈るとき、イエスさまもその詩人とともにいて、詩人とともに祈って下さいます。1節で、詩人が死の苦しみを祈るとき、イエスさまもその場所にいてくださり、一緒に死の苦しみを味わいながら祈って下さる、その祈り神さまに取りなして下さいます。
ですから、「彼らの咎に咎を…」(28節)というのが、詩人の本心であればこのように祈っていいのです。イエスさまが詩人とともにいてくださり、詩人の祈りを神さまに取りなしてくださっているからです。「彼らがいのちの書から消し去られますように。」(29節)と祈っていいのです。イエスさまが、そのように祈る詩人を愛し守ってくださっているからです。
私達も、詩人の言葉にあわせて自分の思いを祈ることができます。イエスさまがこの祈りを取りなしてくださいます。そして、自分ではどうすることのできないこの思いを、祈りをイエスさまが導いてくださいます。すると、祈りは導かれます。その結果が「歌をもって 私は神の御名をほめたたえ 感謝をもって私は神をあがめます。」(30節)です。
3「咎に咎を加え」の成就-十字架-
さて、詩人は、「彼らの咎に咎を加え…」(28節) と祈りました。後に、この御言葉が成就します。また、「私が渇いたときには酢を飲ませました。」(21節)という御言葉の成就します。「兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、…」(ルカ23章35~37節)です。詩人が祈ったように、彼らは、彼らの咎に咎を加えました。罪を犯したことのない神の子イエスさまを十字架の上で殺してしまったのですから。だから、イエスさまは詩人が祈りを心からアーメンとともに祈ってくださいます。詩人のすべての苦しみ、痛みの一切を経験されたイエスまが詩人とともに祈ってくださいました。しかも、イエスさまは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカの福音書23章33~34節)と祈り、咎に咎を加えた彼らのためにも取りなしてくださいました。
彼らだけではありません。実は、私の中にも咎があります。曲がっている、ゆがんでいる私がここにいます。実はいのちの書から消し去られるような存在であった私です。イエスさまの十字架はそのような咎に咎を加える私を贖うためだったのです。神さまにとりなすためだったのです。
詩篇が祈ったこの言葉が成就し、イエスさまが十字架にかかってくださった故に私達は救われました。そして、咎に咎を加え た私さえも救われました。それは、つらくて苦しい歩みのただ中にいる私達に祈ることを教えてくださいます。そして、咎に咎を加え てしまう私たちもイエスさまのとりなしを受けることができるという神さまの大きな恵みが語られています。
(2023年11月12日 石原 俊一 兄)