主にある仲間 (コロサイ人への手紙4章7節~9節)

1 主にある仲間は共に支え合う。

主にある仲間は共に支え合います。

牢につながれているパウロの様子をすべて、コロサイの教会に知らせることのできる仲間がいました。パウロは、ティキコに、今、書いているコロサイ人への手紙をコロサイ教会に運ぶ役割を依頼します。そして、パウロの牢での生活のすべてをコロサイ教会に伝える役割を与えます。それは、ティキコがパウロとともにいてパウロと深い関わりを持っていなければできません。いかにパウロがティキコを信頼しているかが分かります。パウロのティキコのへの信頼は、パウロがティキコを、愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべ と呼んでいることからも分かります。パウロには、ティキコのように主にある仲間の支えがあったのです。
私達の教会は、専任の牧師不在となって4年目迎えています。今は、信徒が互い本当に補い合ってここまできたと思います。MTの仲間の助けも本当にありがたいです。私達は互いにいつまでも主にある愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべ でありたいと心より願います。

2 主にある仲間は慰めを与える

主にある仲間は慰めを与えます。

狭い牢の中の世界です。同労の仲間とぶつかることもあったでしょう。頭にくることもあったでしょう。ときには、おこってしまうこともあったかもしれません。しかし、パウロはそのすべての場所でイエスさまに告白し、イエスさまに自分のすべてを明け渡していきました。パウロは自分のプラスの部分もマイナスの部分もすべて神さまの光の中に置いていったのです。ティキコが伝えたパウロの「すべて」は決して立派なところをさしてはいません。罪人パウはが弱さの真っ只中で神さまの光の中で出て行き、神さまの取り扱いを受けてい来ました。一部始終が「すべて」なのです。そのようなパウロの生活は、コロサイ教会の人々に慰め与えました。パウロという仲間の生活は、ティキコを通してコロサイ人に慰めを与えました。主にある仲間はパウロのように慰めを与えるのです。

3 主にある仲間は仲間を生かす

主にある仲間は仲間を生かします。

パウロは、もう一人オネシモという人物を紹介します。オネシモは、もともとコロサイ教会員であったピレモンという人の奴隷でした。ところが、ピレモンはオネシモの家を脱走してしまいます。そこでの生活がいやになり、逃げてしまったということです。コロサイの町を出たオネシモは、その当時一番大きな都市であったローマに生きます。しかし、決して思うような生活は出来なかったと思います。
そこで、オネシモはパウロと出会います。パウロの伝道によって、オネシモは悔い改めました。自分の間違いに気付きました。同時に、神さまが、失敗してしまったオネシモを愛してくださることを知りました。オネシモへの神さまの導きはそこで終わりません。オネシモが神さまの愛の中で、コロサイのピレモン家に戻ることを決めました。ウロは、オネシモをパウロのもとからコロサイに送ります。このときのオネシモに対する配慮のすばらしさには驚かされます。

まず、9節において、パウロはオネシモのことを、「 あなたがたの仲間の一人 」と呼びます。オネシモは脱走した奴隷です。しかし、オネシモはイエス・キリストを受け入れ、神の愛を信じました。そうであれば、オネシモはコロサイ教会の仲間の一人だとパウロはいうのです。しかも、パウロはオネシモのことを、 「忠実な、愛する兄弟」と呼びます。もうオネシモは脱走奴隷ではありません。悔い改めてピレモンのもとに戻ろうとする、忠実で愛する兄弟として紹介します。さらに、パウロは、「この二人がこちらの様子をすべて知らせます。」と、オネシモをコロサイ教会に慰めを与える人物として紹介します。オネシモがコロサイ教会にとって、とても役に立つ存在なのだということを強調するのです。
私達は、このパウロの言葉にかつては脱走奴隷だったオネシモを真実に生かそうとしている姿をみることができます。それは、なんと実際的で、具体的で、聞く人の心を動かす言葉でしょうか。これこそが主にある仲間に対する言動の模範です。

(2023年11月19日 石原 俊一 兄)

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