十戒(第三のことば)(申命記5:11)

1 はじめに

十戒の第三のことば「主の名をみだりに口にしてはならない」についてお話しましょう。十戒の前半は、「神を愛するための四つのことば」、後半は、「隣人を愛するための六つのことば」ということができます。その第一は礼拝の対象を、第二は、礼拝の方法を、だいさんは、礼拝者の態度をを教えています。

2 主の名

① 神をあらわすことば

旧約聖書の中には、「エロヒーム」「ヤハウェ」「アドナイ」「エル」など様々な神の名が登場します。第三のことばが禁じているのは、太文字の「主」、すなわち、「ヤハウェ」という神の名をみだりに口にすることです。

② ヤハウェという名

新改訳聖書で、太文字の「主」と現わされている神の名は、ヘブライ語では、YHWHという子音四文字で表されます。その意味は、「わたしは『わたしはある』という者である。(出エジプト3:14)」とあるように、永遠の絶対的存在者、契約に忠実で不変であるお方を表しています。

3 みだりに

「みだりに」とは、「むなしく、やたらに、軽々しく、偽って、のろって」という意味です。当時の社会では、神の名を呪文のように唱えたり、神の名を呼んで神を呼び出し、魔術を行いました。神は、このような神の名の使い方を嫌われます。マルチン・ルターは、小教理問答の中で、「私たちは、神様を畏れ、愛するべきです。ですから、私たちは、この方の御名によって、呪ったり、誓ったり、魔術を行なったり、嘘をついたり、だましたりしないで、むしろ、どのような困難の中にあっても、御名を呼び求め、祈り、ほめたたえ、感謝するのです。」と教えました。なぜ、主の名をみだりに口にしてはならないのでしょう。

① マンネリ化します。

「わたしは『わたりはある』という者である」と厳かに語られる永遠の存在者を指すお名前を軽々しく口にしているうちに、神への尊敬も畏れも消え、マンネリ化する危険があるからです。そのうち、偉大な神のお姿が消え、単なる言葉となり、「畜生!」と神を呪う言葉とさえなります。

② 思考が停止します。

神の御名を繰り返し唱える時、人は、考える事をやめ、思考を停止するのです。思考を停止させると、心は落ち着きますが、問題は解決せず、そのまま残ってしまいます。

③ 魔術や呪術の呪文のように、神の名を利用することになります。

これは、第二のことばで警戒された姿勢とひとつです。このように主の名をみだりに口にすることは、永遠の絶対的存在者であるお方を、人格的に愛することに反する行為であることが分かります。

4 神の名を呼ぶということ

創世記に、アダムの子、セツの時代に、「人々は主の名を呼ぶことを始めた。」と記されています。主の名を呼ぶとは、神を求めて、礼拝する、祈るということです。本来、この第三のことばは、真実な礼拝や祈りを積極的に勧めているのです。

① 「御名が聖とされますように」という主の祈りと、共通する思想を私たちに教えます。

神の名が、特別な素晴らしいお名前であることを、私たちが証し、表すことができるようにと祈ることです。

② 信仰の祈りを教えます。

主の名を口にするときに、私たちは、このお方が、永遠の絶対的存在者で、その契約に忠実で不変であることを信じ告白して、その名を呼ぶということにほかなりません。

③ 真実な祈りを勧めています。

この神の臨在を意識し、真実に祈るということを教えます。神様は、外の形にとらわれず、真実な祈りを喜ばれます。私たちも、真実を込めて礼拝し、祈る者でありたいと思います。

(2023年12月3日 木田 惠嗣 師)

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