平和の君を迎えよう(イザヤ書9章6-7節、ルカの福音書2章8~14節)
1 最初のクリスマス
世界で最初のクリスマスの知らせが届けられたのは、小さな羊飼いたちの集いでした。町の囲いの外で昼夜を分かたず羊の世話をし、囲いの中で営まれる人々の日常から切り離された人々。囲いの中からは卑しい存在とされた虐げられた人々。救い主の誕生という出来事からもっとも遠い所にいるような人々。それが羊飼いたちでした。しかしそんな彼らのもとに主の使いは現れて、喜びの知らせを告げるのです。(ルカ2章9~11節)
こうして御使いが喜びの知らせを告げたとき、天からの賛美の歌声が、荒野の闇の中に差し込んだ栄光の光とともに響き渡ります。(14節)
2 地の上で、平和が
「地の上で、平和」という言葉に注目したいと思います。ローマ帝国においては「平和」は皇帝がもたらすものでした。皇帝アウグストゥスが成し遂げた平和、「ローマの平和(パックス・ロマー2ナ)」です。ローマ帝国の言う平和は、剣による平和、武力による平和、敵を征服し、支配し、滅ぼした上に成り立つ平和です。そういう「平和」の思想というものに立ち向かうメッセージを御使いは告げた。それが「天には栄光、地には平和」の歌声でした。今日も現代版ローマ帝国のような国々は剣を誇り、槍を誇り、馬を誇り、「力の均衡」による偽りの平和を追求しています。そこで言われる「平和」は、力と支配に基づく「ローマの平和」にほかなりません。
ここには真の平和はありません。天の軍勢たちが歌う「地の上で、平和が」との賛美は、「ローマの平和」とはまったく異なる響きをもって羊飼いたちの上に届きました。自らを神とするローマ皇帝による圧倒的な軍事力によってもたらされる抑圧と暴力による平和でなく、まことの神の御子、救い主、イエス・キリストによってもたらされる平和。神との和解をもたらし、地上の敵意を葬り去り、虐げられた者に喜びを告げ知らせ、正義と公正を打ち立てる平和。それこそ羊飼いたちにもたらされた真の喜びの知らせなのです。
3 平和の君を迎えよう
主イエスが来てくださった当時のユダヤには、様々な苦しみが溢れていました。いのちは軽んじられ、人々の尊厳は奪われ、構造的な支配の中に人々はかすかな救いの預言を頼りにしながら日々を生きていました。イエス・キリストの御降誕はそのような現実と無関係に起こったのでなく、むしろその只中に起こった。そこには愛する御子をお遣わしになった父なる神さまの愛の決断がありました。
イザヤ書9章6節、7節には何としても救いを成し遂げようとなさる神の熱心、熱意があります。私たちがクリスマスを迎えているこの時代、この社会にも様々な苦難、矛盾、格差、敵意、不正や不平等があふれかえっています。そんな中に身を置いて生きていると、クリスマスどころではない、という気持ちにすらなりかねない。あるいはクリスマスという一時の幻想の中に逃げ込みたい衝動にも駆られる。しかし、私たちがクリスマスを迎えるということは、そのような世界の悲しみに目をつぶり、背を向けて、「それはそれとして」の喜びや楽しみを味わうためではありません。この苦しみの満ちる世界の只中に力ある神を送り、この争い、敵意、疎外の溢れる世界の只中に平和の君を送り、そうしてさばきと正義を行って神の王国を立ててくださる。そのようにして、私たちにまことの救いをもたらしてくださる父なる神さまの愛の決断を受けとめることこそが、神さまの御心です。
そうであればこそ、クリスマスの喜びの傍らで失われた幼子たちのいのちを見つめる眼差しは、そこに留まってしまってはならないものでしょう。そこから私たちが見つめるようにと促されるのは、私たちのためにお生まれくださった御子イエス・キリストを十字架につけるほどに、そのいのちを差し出すほどに、私たちを愛してくださっている父なる神の愛の心を受け取り、私たちを救うためにこの世に来てくださった救い主、平和の君なるイエス・キリストをお迎えする者とならせていただきましょう。
(12月10日 朝岡 勝 師 要約文責 石原 俊一 兄)