使徒信条講解14 我は聖霊を信ず(2)(ヨハネの福音書16章4〜11節)

1 聖霊なる神は罪を示す

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」とイエス様は語られました。聖霊なる神は、まず、私たちに、罪を明らかにされます。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」とイエス様は、解説されました。イエス様の御生涯を、福音書を通して見て参りますと、イエス様の語る力ある説教を聞き、力あるわざを見、それでも、人々は、特に、ユダヤ教の指導者たちは、イエス様を信じようとしませんでした。神のことばを聞く耳を持たない、神のわざを見る目が閉じられている、それが、彼らの問題でした。けれども、それは、彼らだけのことではありません。私たちも、同様に、神に向かって、耳も目も閉じていて、神様の言葉は響いてはいても、聞くことが出来ず、神様のみわざを見てはいても気がつかない。私たち自身には、神の救いを自分のものとして掴み取る能力が決定的に欠如していると言わざるを得ません。ルターは、その小教理問答者の中で、使徒信条の最後の部分、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠のいのちを信ず。」を解説して、「私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみもとに来ることも出来ないが、聖霊が福音によって私を飯、その賜物を持って照らし、正しい信仰においてきよめ、保ってくださったことを」と述べています。聖霊なる神様は、私たちの最も奥深くにある不信仰という罪を示し、くらまされた目を開いて、私たちのために十字架にかかって罪を赦し、三日目に復活され、今も生きておられるイエス様を示し、信じさせて下さるのです。ウエスレーも聖霊によって目が開かれた時、彼の閉ざされていた心が開き、自分自身が、救いようもない罪人であることを悟り、イエス様の十字架をそのまま信じ受け入れることこそが、自分の罪を解決する唯一の手段であることを悟り、罪の赦しの確信を得ました。

2 聖霊なる神は正しい判断の基準を示す

ヨハネの福音書において「義」という言葉が何を意味するかを理解することは、なかなか難しいことなのです。というのは、この「義」という言葉が、この8節、10節にしか出てこないからです。しかし、おおよそ、このようなことだと理解することが出来ます。ユダヤ人は、彼らの判断基準で、イエス様には、罪(神を冒瀆する罪)があると判断しました。ペテロは、ペンテコステの日、集まってきたユダヤ人たちに、次のように語っています(使徒の働き2:23、24、32、36)。
23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。 24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
彼らの判断基準では、イエス様は、十字架に死刑にすべき罪人でしたが、神は、そのイエス様を死者の中からよみがえらせ、彼らの判断基準が間違っており、イエス様は、罪のない、義なるお方であることを公にお示しになったのです。パウロもこのことを、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方(ローマ1:4)」と語っています。ペテロが、このように語った時、多くのユダヤ人が心刺され、悔改めてイエス様を信じました。ユダヤ人の「義」、彼らの判断基準は、現在も変わりません。多くのユダヤ人が、イエス様は、十字架で処刑された罪人であるとして、キリスト教には、目も向けません。しかし、聖霊なる神は、彼らの義の誤っていることを教えてくださいます。同様に、誤った判断基準を持ち、キリスト教など、邪教で信じる価値もないと考えている多くの人がいるのです。そのような人々に、その誤りを教えてくださり、眼から鱗のように、義なるイエス様を教えて下さるのです。ルターも、聖霊によって目が開かれ、「義」という聖書の言葉を、忌み嫌っていた彼の判断基準がどんなにおかしいものであるのか、教えていただき、そこから、宗教改革が始まりました。

3 聖霊なる神は自由を与えて下さる

「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」というみことばも、「義」についてと同じ線で理解することが出来ます。ユダヤ人は、誤った判断基準に基づいて、イエス様に有罪の判決を下し、十字架につけました。その誤った判断は、この世を支配するサタンに支配されているところからきます。サタンは、聖書の中では、「空中の権威を持つ支配者(エペソ2:2)」と呼ばれています。私たちは、意識するとしないとにかかわらず、この世の流れの支配者、空中の権威を持つサタンの影響のもとにあります。サタンは、流行によって、あるいは、私たちの判断基準を誤らせることによって、とんでもない罪の生活の中に奴隷のように、沈ませます。しかし、イエス様は、その十字架の死によって、このサタンを滅ぼし、私たちを、自由にしてくださったのです。ヘブル書2:14、15に「14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、 15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」と書いてある通りです。

4 私たちのなすべきこと

神様は、この聖霊なる神を、教会に遣わし、また、私たち一人ひとりの心にもお与えくださいます。その聖霊なる神様が、私たちに与えられるために、イエス様は、十字架にかかり、死んで三日目によみがえってくださいました。神様の側では、全ての備えが完了しているのです。じゃあ、私たちは、何をすれば良いのでしょうか。①素直な心で、神様の語りかけ、聖霊のささやきに耳を傾けることです。②悔い改めることです。ペンテコステの日に、ペテロがユダヤ人たちに語ったメッセージをもう一度、心に留めましょう。ペテロは、心を刺されたユダヤ人たちに、「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と語りました。③明け渡すことです。私たちには、それぞれに、自分自身の判断基準があります。しかし、それが、本当に正しいと、誰が主張できるでしょうか。大切なことは、自分自身の判断基準に固執するのではなく、神様の判断基準を受け入れ、神様に喜んで従うという姿勢ではないでしょうか。神様は、そのような人に、聖霊の導き、祝福の何たるかを教えてくださいます。

(2023年12月17日 木田 惠嗣 師)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です