愛がなければ(コリント人への第一の手紙第13章1~3節)
1 霊的な賜物・異言に愛がなければ…
コリント教会では、神さまが与えて下った霊的な賜物がさかんに用いられていました。その一つが異言です。異言は祈りの賜物です。自分の言葉で祈りきれない人のために与えてくださった神さまからの贈り物です。ところが、コリントの教会では、異言で祈る者が周りの人のことを考えず、異言を乱用することが問題になっていました。教会にはいろいろな信仰の人が集まります。神さまのために用いる異言の祈りが他の信仰者のつまずきになることがありました。パウロは、周りにつまずいている人がいるのに、所構わず、異言で祈る人がいたことを問題にしたのです。大切なことは、「何が正しいかよりも、愛があるかです」自分の正しさでつまずきや混乱を与えないことです。自分の正しさが混乱を生むとしたら、それは、ここでパウロのいっている「騒がしいドラやうるさいシンバル」と同しです。
2 預言や知識に愛がなければ…
知識をもつことはとてもよいことです。しかし、その知識は人をさばく刀のようになることがあります。その知識をもって相手を責め、自分の正しさを主張しようとする心が生じてしまいます。愛は、兄弟のために自分の大切なものを捨てます。あるときは、自分の正しさを、あるときは自分の知識を捨てます。それは、兄弟のためにです。兄弟が生きるためにです。自分の正しさ自分の知識より何が大切か、それは兄弟自身です。相手自身です。相手を心から尊重して自分を捨てることが愛なのです。
信仰をもっていながら愛がないということはあり得ません。しかし、残念ながら、私たちは信仰を理由に自分の正しさを主張することがあります。信仰で人を裁くこともあります。信仰で人を責めるとき、自分には完全な信仰をもっていると思い込んでいます。しかし、人を責め、裁くとし、その人にはイエスさまがいません。愛がありません。実はその人には信仰もないのです。私たちは、このことを本当に自戒したいと思います。
3 慈善行為も愛がなければ…
愛のない慈善には二つの問題があります。一つは、その行為の目的が相手のためではなく、慈善行為を行うことで自己顕示欲を満たすということです。二つ目は、その行為が本当に相手を生かすかを考えていないということです。問題は、お金の大きさではありません。相手に施すことが本当に相手を生かすのか。本当に相手の成長に寄与するのかを考えなければ愛とはいえないということです。
自分を誇るために死んでいった人はいないと信じたいです。しかし、パウロ自身が自らに対する戒めとして語っています。死をもってさえ、自分を誇る理由になってしまう人間の弱さをパウロは知っていたのです。人間がいかに自分を主張し、自分を誇る物か。その罪の実態をよく知っていたから、パウロはこのように書いたのです。
4 愛とは
イエス・キリストは、私たち一人一人を心から大切な存在として見てくださっています。そして、命をもたない、私たちを義とするために十字架にかかって死んでくださいました。私たちの罪をご自分が担ってくださいました。それが神さまから私たちに注がれる愛です。
そして、どのような罪人でも、イエス様は愛されています。だから、イエスさまを信じるわたしたちは、人を心から大切に思うようになります。自分が神さまに愛されたように、この人も神さまに愛されているんだ。この人も価値ある存在なんだと思うようになります。イエスさまに愛されている故、相手を心から尊重し、相手のために自分の正しさを捨てることができます。相手が一番生きるための道を歩むことができるようになります。
愛とは、相手の存在を心から尊ぶことです。相手の大切を相手さに伝えることです。そして、相手のために、自分の正しさや自分の誇りを捨てることです。
正に、イエスさまの十字架こそイエスさまの愛の現れです。そして、イエスさまの十字架を信じて歩む私たちは気がついたら、愛を実践する者に変えられています。もう、自分をダメな者だと思う必要はありません。自分の正しさや自分の持ち物で自分を主張したり誇ったりする必要もありません。相手の生かすために、自分に死ぬことのできる存在にイエスさまが変えてくださるのです。
(2023年12月24日 石原 俊一 兄)