私たちのために(ローマ人への手紙8章26節)

1 弱い私たち

私たちにはいろいろな弱さがあります。体や健康、心や気持ち、理解すること、判断すること、自然の力に対して、お金にも、力にも、恐れや不安にも弱く、自分が弱いことに気づかないという弱さもあります。8章26節は一つの文脈の中にあることばです。その始まりは18節です。「今の時の苦難は」とあります。「今の時」というのは、昨日、今日、明日という流れゆく時の「今」ではなく、「やがて」来る時に対する「今」のことです。「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと考えます」とあります。やがて、栄光の時が来る。それに対しての今の時です。今の時は、苦難があると聖書は告げています。19~22節では「被造物のすべて」がうめいていると言っています。被造物とは、神様に造られたすべての物のことです。自然も、宇宙も、そこにあるすべての物も、人間もそうです。19節「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを(やがて来る栄光の時)を待ち望んでいます。」22節「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています」。世界中で起きている自然災害は被造物のうめきのようです。世界中から人間のうめきが聞こえます。力による虐げ、暴力、支配。いのちを奪われていく人々のうめきが聞こえて来る一方で、生きることの苦しさを訴えるうめきも聞こえます。23節を見ると「それだけでなく、」とあります。「御霊の初穂をいただいている私たち自身(イエス様の十字架によって救い出されたクリスチャンたち)も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われること(やがて来る栄光の時)を待ち望みながら、心の中でうめいています」。クリスチャンたちもうめいているというのです。確かに救いの恵みに生かされていますが、「今の時」は、クリスチャンにとってもまだ完成の時ではありません。愛することにおいて、赦し合うことにおいて、いろいろな弱さや欠けを持った自分自身を受け入れることにおいて、神に従うということにおいて、なんと貧しい私たちでしょうか。「心の中でうめいている」私たちではありませんか。「やがて」の時を待ち望みながら、うめいているというのです。「今の時」を生きる私たちは、「弱い私たち」です。

2 何をどう祈ったらよいか分からない私たち

いろいろな弱さのある私たちですが、その中でも特に、「何をどう祈ったらよいか分からない」私たちだと言っています。いつでも、どんなことでも、イエス様の名によって、父なる神様に祈る道が開かれています。たどたどしくも祈る私たちですが、祈ることばが出て来ない苦しみを経験することがあります。あまりにも大きな出来事を前に祈る言葉を失うことがあります。あまりの悲しさに涙するだけの時があります。自分を責めて、自分には祈る資格などないとうめくしかない時があります。何をどう祈ったらよいか分からない私たちです。ところがそこで、私たちはもう一つのうめきに出会います。御霊のうめきです。

3 私たちのためにとりなしてくださる御霊

「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」。うめいているのは私だけではないのです。私たちのために、うめいてとりなしてくださる方がおられるのです。御霊なる神様はそのようにして弱い私たちを助けてくださるのです。ここで使われている「助ける」という言葉は、「共に」、「代わって」、「担う」という三つの言葉からできているそうです。一人では負えない重荷を一緒になってうめき、担って、とりなしてくださる御霊なる神様がおられるのです。

  (舘脇 暁美 師)

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