ともにあゆまれる復活の主(ルカの福音書24章13-32節)

1 共にあゆみ、聞いてくださる主

エマオに向かう2人の弟子はイエス様の死に直面し、失望と混乱の中にありました。復活の知らせを聞くも、彼らは交わりから引いて離れて行こうとしていました(13-14節)。熱心だからこそ打ちのめされることがあります。祈れなくなることがあります。神が沈黙しているように感じることがあります。自分の仕事や家庭の歩みに、神様が目を留めておられないように感じることがあります。教会から外に出れば、神様なしでまわっている世界があります。そこでクリスチャンとして真剣に生きることに疲れ、虚しく感じられることがあります。しかしイエス様は、そんな私たちに寄り添い、共にあゆんでくださるお方です。2人の弟子にイエス様ご自身が近づき(15節)、彼らの長い話をまず聞きました(19-24節)。そのために、彼らの目はあえてさえぎられていました(16節)。しかも彼らは、無名のクレオパと名前も記されない弟子たちでした。しかし、そんな彼らをわざわざ追いかけたように、イエス様は、誰の目にも留まらないように思える私たち1人1人のあゆみを気にかけ、信仰が落ちこむ時にも追いかけてくださるお方です。

2 みことばの解き明かしの中で

その上でイエス様は、私たちに必要なことがみことばであることを教えます。イエス様は2人の弟子に聖書全体を説き明かします。イエス様なら、奇跡を見せたり、短いインパクトのある説教をしたりして信じさせることもできたはずです。往々にして私たちは、そのような劇的体験を求めます。しかし、劇的な信仰は劇的に燃え尽きます。イエス様が願ったのは、聖書全体を理解してみことばを通して与えられる息の長い信仰です。イエス様が見えなくなっても信じ続けることのできる信仰です。ですから私たちも、みことばに聴き続ける地道な営みが必要です。そしてそのために、みことばに聴く交わりに留まることが大切です。この2人の弟子も、この機会を逃さないように、イエス様と一緒にいることを選びました(29節)。そのように、みことばの交わりへの招きに、精一杯応えていく者でありたいと思います。

 3 ともしびのように燃え続ける信仰へ

その時、私たちの心はみことばを通して燃やされます。32節で「心は内で燃えていたではないか」とある表現は、新約聖書では「ともしび」とよく結び付けられる言葉です。激しく燃えて激しく燃え尽きてしまう信仰ではなく、静かなに燃え続けることのできる火が与えられるのです。
ですから、どんなに信仰が落ち込んだ時にも、みことばの交わりへの招きに応えていきましょう。あるいは、落ち込んでいる兄弟姉妹がいるならば、みことばの交わりへ招くために声をかけましょう。私たちのそんな応答が、その兄弟姉妹を追いかけるイエス様の手足として用いられていくのです。

(2024年2月25日 永井 創世 師)

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