わたしだ恐れることはない(ヨハネの福音書6章16~21節)

1 はじめに

ヨハネの福音書は、イエス様の行われた七つのしるしを中心に語られています。今日お話しするヨハネの記事は、マタイ、マルコよりも簡潔で多くの省略があります。ヨハネは、この後、長いいのちのパンについての講話を記します。話の流れからは、省略しても良いと思われます。ヨハネが、あえて、このしるしを書き記した理由を考えながら、お話を聞いていただきたいのです。

2 イエス様不在の舟

キリストの教会は、その二千年に及ぶ歴史の中で、自らを、主イエス不在で出発した舟になぞらえて理解してきました。この福音書が書かれた時代は、迫害の時代で、その後、約300年、迫害が続きました。日本の教会の歴史も、私たちの人生も、弟子たちの舟と重ね合わせることができます。

3 モーセとの対比

ヨハネは、先に、「ユダヤ人の祭りである過越しが近づいていた。」と書きました。そこから、パンの奇跡を読んだ人々は、天来のマナを与えたモーセを連想し、また、湖上を歩かれるイエス様のお姿は、紅海を分けて人々を海の中を歩かせたモーセの話を思い出させたに違いありません。けれども、イエス様を、「モーセのような預言者だ」と言ったのでは、不合格です。ヨハネは、前後の説明も省略し、ただ、「わたしだ。恐れることはない。」と短いイエス様のことばを書き記します。実は、このひと言が、ヨハネが語りたかったすべてを語っています。

4「わたしだ」

「わたしだ」という言葉の意味は、説明するほどのことはなく、その通りのことばです。マタイも、マルコの文脈からは、「幽霊ではない。わたしだ。」という意味が伝わります。しかし、一切の事情を省いて、ただ、「わたしだ」と語るヨハネの文脈からは、神が、モーセに、「わたしは、『わたしはある』という者である。(出エジプト3:14)」と答えられた、神御自身の言葉が浮かび上がります。イエス様ご自身が、わたしだ(=「わたしはある」=(ギ)エゴ―エイミー)と語り、旧約聖書の主(ヤハウェー)なる神ご自分であり、モーセにはるかにまさる者であると啓示されているのです。

5 チャールズ・コーウィン師のモチーフ

第二次世界大戦後、チャールズ・コーウィン師は、「中央日本開拓宣教団(CJPM)」の宣教師として来日し、群馬県、栃木県、埼玉県、東京都などで伝道をしました。後に、東京の武蔵野に、ティラナスホールというクリスチャン学生寮を建設し、多くのクリスチャン学生を育てました。その働きを支える東京隊のネクタイピンのデザインに、キリシタン武士の刀の鍔のモチーフが使われました。そのキリシタン鍔には、帆掛け船と十字架がデザインされています。刀身が鍔を貫く部分に、聖書を配置されています。コ―ウィン宣教師は、キリストとみことばとにいのちを懸けるクリスチャンを育てたいと願ったのです。私たちも、喜んで、イエス様を私たちの心にお迎えし、イエス様と共に歩み、「すぐに目的地に着いた」という生き方をしたい。

(2024年5月12日 木田 惠嗣 師)

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