バプテスマを受けられたイエスさま(マタイの福音書3章13~17節)
1 自分の正しさを手放したヨハネ
ヨハネはイエスさまがバプテスマを受ける必要はないとい言いました。それは、イエスさまが神の子であり、罪のない方だからです。悔い改めるとは、神さまを離れて自分中心の生き方をしていた者が神さまの方に向きを変えることです。ところが、イエスさまは神さま御自身です。人はみなイエスさまの方に向き直る必要はありますが、イエスさま御自身が悔い改める必要はありません。ですからその表明であるバプテスマを受ける必要はないのです。しかし、ヨハネは、イエスさまが言われたとおり、イエスさまにバプテスマを授けました。「言われたとおりにした」。という言葉には「手放す」という意味があります。ヨハネは、私の思いを超えた神さまの御心の大きさに心を向けることで、自分の正しさを手放すことが出来たのです。私たちも、自分の正しさしか見えなくなったときに、このヨハネの姿を心に留め、祈りながら歩んでいきたいと思います。
2 イエスさまがバプテスマを受けた理由
バプテスマを受ける必要のないイエスさまがバプテスマを受けたのには3つの理由があります。
(1) イエスさまがヨハネのパプテスマに同意した
一つ目は、「イエスさまがヨハネのパプテスマに同意した」ということです。イエスさまは、バプテスマ、すなわち、罪を認め、罪を告白し、悔い改めて神に向き直ることを表明することの大切さをお認めになったということです。
(2)悔い改めの道から十字架の道に導くため
二つ目は、「悔い改めることのできない私たちに、真実に悔い改める道をつくった」ということです。人は真実に悔い改めることのできない絶望的な存在です。私たちははそれでも真実に自分の罪を認め神さまに向きなおることができません。人は自分の罪を自分ではどうすることのできない存在なのです。しかし、私たちと共に歩み私たちと一体になってくださったイエスさまは悔い改めのバプテスマを受けてくださいました。ですから、私たちはイエスさまにあって悔い改めることができるようになったのです。
(3)私たちに救いを与えるため
三つ目は、「私たちに救いを与え、ヨハネが始めたバプテスマを完成するため」ということです。です。イエスさまは、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。悔い改め、バプテスマを受ける者が赦しと救いをいただくことができるようになったのです。牧師は、父と子と聖霊の名においてバプテスマを授けます。私たちは、イエスさまにあって、罪を認め、罪を告白し、神さまに向き直り、バプテスマを受けることで救われたことを表明するのです。
3 キリストの登場を喜ぶ三位一体の神
ヨハネからバプテスマを受けたこの時は、神の子キリストとしての歩みをスタートしたという記念すべき第一歩でした。この第一歩によって、神さまの救いの計画が大きく前進していきます。神さまにとって、このときは本当に喜びの時でした。この記念すべき時に聖霊が働かれました。鳩のように降りてこられたのです。これは、実際に聖霊が注がれるというイエスさまの戴冠式でした。それだけではありません。父なる神さまは、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と言われます。ここに、三位一体の神がすべて登場します。バプテスマを受けられた子なるキリスト、天から下ってきた聖霊、声をかけられた父なる神、ここに3つの人格でありが一つの本質である神さまがはっきりと現れ、喜びを表しました。三位一体の神は愛の交わりを創り出すといいます。そして、キリストとともに悔い改め、救いの中に入れられた私たちは三位一体、父、御子、御霊の愛の交わりの中に入れられます。それは、平和と平安の世界です。祝福の世界です。それだけに、イエスさまがバプテスマを受けてくださり、私たちを真の悔い改めと真の救いに導かれたことがどれだけすばらしく喜ばしいことかを覚えたいと思います。
(2024年5月19日 石原 俊一 兄)