キリストが愛されたように(エペソ人への手紙5章21~33節)

0 はじめに

今日の聖書箇所は、クリスチャン、特に夫婦に対して大切な教えを語っていると同時に、現実的にはクリスチャン夫婦のいさかいの原因となることも度々ある箇所です。「夫に従いなさいと書いてあるだろう」「妻を愛しなさいとあるじゃない」と、お互い相手に対して、それぞれ向けられている聖書の言葉として引用されることが多い場所です。

1 鍵となる21節の言葉

この箇所を理解する上で大切なのは、21節です。ここに22節以降を読む上での基本的な心構えが描かれているのです、十戒を理解する上で大切なことが、十戒の教えそのものより「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」(出エジプト20:2)という言葉であるのと同じです。「互いに従い合いなさい」。この言葉は「ヒュポタッソー」というギリシャ語がつかわれています。「ヒュポ」(下に)+「タッソー」(位置づける)意味です。つまり相手より自分を下の立場に位置付けるということなのです。

この意味を理解した上で、私たちは22節以降の言葉を読まなくてはいけません。しかもヒュポタッソーという言葉の前には「キリストを恐れて」が付いています。これは暴君を恐れるという意味よりも、むしろ「キリストの姿ゆえに」「キリストがなされたことゆえに」というニュアンスが含まれています。

有名なのはイエス様が弟子たちの足を洗われたことです。私たちはこの「足を洗う」ということの意味を充分理解できていないように思います。現代において、道路は舗装され整備されています。しかし、当時アスファルトは道路に用いられず、一番の特徴は人間の歩く道を多くの家畜も歩いていたということです。いけにえに使う羊や牛だけでなく、軍隊が使う馬なども歩いていました。道には動物の糞や尿があり、人はそのような道を歩いてくるのです。ですから足を洗うのは本来奴隷の仕事とされていました。しかし、その仕事を主である方がなされたのです。

2 夫婦関係と教会の関係

もう一つ大切なことは、実はここに記されている夫婦関係こそが、教会の本質であるということなのです。26,27節「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」29節 「まだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。」32節「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」「夫婦関係は夫婦関係、教会は教会」ではない、私たちの教会の本質はここで語られる夫婦関係(人間関係)にあるとパウロは指摘しているのです。

3 小さな一歩

今日読んできた箇所には、しつこいくらい繰り返し夫や妻に対して「従いなさい」「愛しなさい」と記されています。これはそれだけ私たち夫に従い、妻を愛するのが苦手であるのかを物語っています。

エーリッヒ・フロムはその著書「愛するということ」の著書の中で、「まず第一に、たいてい人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。」と、人間の愛することのできない自己中心性を描いています。

先週23日、24日に「キリスト全国災害ネット」の呼びかけで能登半島地震の現状視察に行ってきました。その中で被害の大きかった輪島市を訪問しました。輪島市の教会が進められていた大切な支援活動の一つに「輪島塗工房の作品・道具の救出」があります。輪島市内には輪島塗の工房が多数ありますが、その多くが倒壊の被害を受けていました。しかし、通常の解体業者に頼むと倒壊した建物の下にある高価な輪島塗の作品・貴重な制作工具なども一緒に処分されてしまうため、悩んでいました。その問題を知った輪島聖書教会の荒川牧師は、協力関係にある広島の牧師先生に依頼し、重機隊を送ってもらうと同時に、地元業者の応援も受けて、無料で輪島塗工房の作品・工具搬出作業に当たりました。従来の解体作業に比べると手間も資金も多くかかりますが、自分たちの考えよりも被災された方々の必要を優先した結果でした。最初は懐疑的だった輪島塗の職人たちもその働きに感動し、これまで40件以上の依頼を受け、現在まだ13件の依頼が残っているとのことでした。

エーリッヒ・フロムは「(愛する)そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。どうすれば人を愛することができるかを学びたければ、音楽・絵画・医学などの技術を学ぶときと同じ道をたどらなければならない。」と語っています。私たちも最も身近な人間関係の中で、愛することを学び続けて生きたいと願うのです。

(2024年5月26日 高橋 拓男 師)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です