最後まで愛された(ヨハネの福音書13章1~15節)
0 はじめに
ヨハネの福音書は13章~最後の晩餐、十字架、復活が記されます。その始まりの13章1節を見ましょう。この中に大切な二つのことがあります。「時」についてと「愛」についてです。
(1)「ご自分の時」
「過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた」(1)。イエス様にとって、世を去る時が来ていました。それは十字架の時です。イエス様はそれを「ご自分の時」と言っておられます。
(2)「最後まで愛された」
この大切な時にイエス様がされたことは、愛することでした。「ご自分の者たち」と呼ぶ弟子たちを「最後まで愛された」のでした。「極みまで」(文語訳)、「この上なく愛し抜かれた」(新共同訳)とも訳されています。どのようにですか。弟子たちの足を洗われました。ヨハネはまるで映像が目に浮かぶように書いています(4,5)。このイエス様の姿に三つのことを見ます。
1 しもべの姿(低くなられた)
客や主人の足を洗うのはしもべの仕事です。それも一番低いしもべの仕事です。イエス様は静かに最も低い所に身を置き、弟子たち一人ひとりの足を洗ってくださいました。イエス様が示された愛は仕える者の姿でした。仕えるということは自己卑下ではありません。イエス様は弟子たちの足を洗いながら彼らを愛し抜かれたのです。完璧な弟子など一人もいません。けれどイエス様は彼らについて、「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」(ルカ22:28)と言われるのです。イエス様がなさることの訳が分からずに戸惑うペテロには、「今は分からなくても、後で分かるようになります」(7)と言われます。これも愛です。イエス様は彼らを「最後まで愛された」のです。
2 まことの救い主の姿(十字架を示された)
イエス様の愛は土埃で汚れた足を洗うだけの愛ではありません。世を生きる私たちの傷つき汚れた足、心をすっかり洗って優しくふき取ってくださいます。それが十字架です。「彼ら」の中にはイエス様を裏切ったユダも入っていました。彼の足も洗ってくださったのです。イエス様は最後の最後までユダを見放すことをなさいませんでした(マタイ26:50)。訳が分からぬまま「私の足を決して洗わないでください」(8)と退こうとするペテロに対しても「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と語りかけられます。「彼らを最後まで愛された」。このような方こそ私たちにとって必要な救い主、真の救い主ではありませんか。
3 主であり師である姿(模範となられた)
「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。…わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです」(12~15)。イエス様の教えは聞くだけのものではありません。「あなたがたもするように」。イエス様が示して下さった模範は、普通の生活の中にあることでした。ありふれた場面でなされた静かで低い行為でした。そこにこの上もない愛を注がれ愛し抜かれたのです。私たちも、どこかではなくここで、イエス様の愛を受け、イエス様の愛に生きるのです。十字架に至るまで、「最後まで愛された」イエス様を私の心に迎え入れましょう。
(2024年6月2日 舘脇 暁美 師)