絶望の先にある回復(エレミヤ書30章1~24節)

0 はじめに

エレミヤの預言どおり、ユダ国はバビロンによって滅ぼされました。首都エルサレムが焼きつくされ、神殿も破壊されました。偽預言者ハナンヤは、「2年のうちに、すべての器をこの場所に戻す」と預言します。ハナンヤは、「まだなんとかなる。私たちは神の民なのだから」という「民の心」を語ったのです。そのような中で、主は、「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。」と命じになります。

1 「その時代がくる」という回復の預言

主はユダだけではありません。すでに100年以上前に国が消滅したイスラエルまで回復させるといいます。彼らはそれを所有するというのです。主による完全な回復です。驚くべき「主のことば」です。しかし、この回復の預言はユダの民を絶望に導く第一歩でもありました。「主のことば」は見よ、その時代が来ると語ります。「その時代」とは、再臨のとき、最後の審きがあり、救いが完成し、御国が完成するときです。主のことばは、当時のユダの民が間違いなく回復の時代をみることなく死んでいくことを示しました。

2 ユダの罪とその結果

再臨のとき、すべての者が神の審きを受けます。それは、神を信じない者には恐れてわななく声を聞くときです。「恐怖で、平安がない」ときです。その日とはわざわいです。苦難の時です。回復の日に与えられる神の審きは、バビロン捕囚の苦しみよりもはるかに大きいのです。そのような審きがあるのは当然です。ユダの民はどうしようもないほど罪の中を歩んできたからです。神は繰り返し語ります。「あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。」と。ですから、神は11節後半で、さばきによってあなたを懲らしめる。 決してあなたを罰せずにおくことはない。」と語ります。「あなたを滅ぼし尽くすことはない。」とあるように、神のこらしめを受け、審きを受け、ユダの民のほとんどは滅ぶのです。

3 神の願い

30章において、なぜ、神さまは、「主のことば」を語ったのでしょうか。それは、「主のことば」を信じ、悔い改める者、神さまに立ち返る者を待っておられたからです。「自分は大丈夫だ、まだなんとかなる」という心を持ち続ける限り、人はいつまでたっても神さまのもとに立ち返ることができません。しかし、神さまは、罪の宣告と回復の預言を信じる者を待っておられました。そして、自分の罪を認め、やがて回復のときがくることを信じる者、真実に悔い改める者を救おうとされたのです。

4 悔い改めた者に与えられる回復 3つの姿

主はさらに、どのように回復するのかについて具体的な3つの姿を示しました。回復の一つ目は、救いです。主は回復のときに「救う」と繰り返し、繰り返し語り、民を悔い改めに導こうとしているのです。回復の姿の二つ目の姿は癒やしです。主は真実に悔い改める者を救うだけではありません。その傷を癒やし、その打ち傷を癒やしてくださいます。回復の三つ目の姿は、建て直すということです。再臨のとき、神さまは、神の国を完成させます。神の国には喜びと感謝があふれます。神はその神の国に悔い改めたユダの民を加えようとしたのです。

5 現代のわたしたちへのメッセージ

今を生きる私たちは、再臨の前の時代を生きています。私たちにもその時代、回復のとき、再臨のときが必ず来ます。今の時代も偽預言者ハナンヤの預言のように、耳障りのよいことばで満ちています。人々は自分を認め、肯定してくれる言葉を求めます。自分の問題を指摘する声に耳をふさぎます。それは、どこかにまだ、自分に期待しているのです。自分の力でできる、自分も捨てたものではないと思いたいのです。そのような主は、私たちのために30章の「主のことば」を書き残してくださいました。バビロン捕囚の民が自分たちの罪と向かい合わなければならなかったように、神さまは、私たちも自分の罪と向き合うように導かれるのです。ユダの民を絶望に導いたように私たちも自分に対して絶望するように導かれるのです。私たちは、自分に絶望したそのとき、真実に悔い改めたそのとき、平安に満たされます。静かな穏やかな平安です。なぜなら、真実に悔い改めたそのとき、イエスさまの十字架が私の十字架になるからです。主が与えてくださる回復-すなわち赦しが、癒やしが、そして建て直しが私たちのものになります。絶望の先には回復があるのです。主は言われます。終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。と。終わりのとき、救われたユダの民も私たちも、主の大きな愛に満ちた御心の全てを悟ることができます。

(2024年6月9日 石原 俊一 師)

 

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