弱さから生まれる宣教(コリント人への手紙第二12章9節)

1 弱さを抱えている私たち

この手紙は宣教に生涯を尽くした使徒パウロが書いた手紙です。今日読んでいただいた1節の中に2回、「弱さ」という言葉が出て来ます。「弱さのうちに」「自分の弱さを」

私たちは日々の生活の中で、また人生の中で弱さを覚えます。いろいろな意味で限りある存在だからです。時間にも体力にも限りがあります。どんなに頑張ろうと思ってもこれ以上できないということがあるのです。私たちは弱さを抱えています。

パウロも弱さを抱えていました。どんな弱さでしょう。7節に「私は肉体に一つのとげを与えられました」と書いています。それが具体的に何を指しているのかは特定されていません。体の病気であったかもしれないし、働きの中で起きてきた迫害のことであったかもしれないし、人間関係によってもたらされた深い痛みであったかもしれません。10節には「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」という言葉があり、また11章23~29節にはより具体的に彼が経験してきた困難が記されています。

パウロは肉体に受けた一つのとげについて7節で二つのことを言っています。一つは、(神によって)与えられたということです。「その啓示のすばらしさのために(12:1~)高慢にならないように…与えられました」。もう一つは「私を打つためのサタンの使いです」。まるで反対のことを言っているようですが矛盾ではありません。高慢とは、人よりもすぐれていると思い上がって人を見下すことです。これは気をつけないと信仰の世界でも起こるのです。パウロはそのことを知っていました。あまりにすばらしい啓示を受けたのは神様の恵みであることを忘れて自分が優れているかのように思い違いをして高慢になってはならないのであり、一方で宣教の働きを妨げようと打撃を与え、消耗させ、その働きをストップさせようとする力が働いていることも感じていたのでしょう。困難を神からのこととして受け取ることも、困難を取り去って下さいと願うことも、どちらも信仰の事実です。「この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました」(8)。「三度」とは単なる回数のことではなく、イエス様がゲッセマネでそうなさったように(マタイ26:36~)、パウロも祈り抜いたということではないでしょうか。このパウロの願いに対し神はどうされましたか。

2 しかし主は

「わたしの恵みはあなたに十分である」と語られました。弱さを取り除くのでなく、恵みへの気づきを与えてくださいました。人間が与える恵みではなく、「わたしの恵み」への気づきです。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」。強い時、自分で頑張っていると思っている時には気づかないことがあります。弱さから生まれるもの、弱さからしか生まれないものがあるのです。

3 ですから私は

キリストの恵みに気づいたパウロはそこに留まらずに、「ですから私は」と言います。「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。私たちの信仰は自分の頑張りを誇る信仰ではなく、弱さを抱えながらキリストの恵みに気づき、キリストの力におおわれて生きる信仰です。そうした人々の集まる教会こそが本当の意味で力強い教会なのではないでしょうか。そのような教会によってなされる宣教こそ主の求められる宣教ではありませんか。

福島聖書教会はこの2年、石原先生ご夫妻を遠く千葉に送り出されました。心細いことや困難もあったでしょう。そのような中で礼拝が続けられました。今、伝道師として石原先生を迎えておられます。共に礼拝する方々加えられています。「しかし主は、わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。

(2024年6月16日 舘脇 暁美 師)

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