「悔い改めなさい」(マタイの福音書4章17節)

1 「悔い改め」とは

イエスさまは、宣教を開始するときに、「悔い改めなさい。天の王国が近づいたのだから」と言われました。これは、バプテスマのヨハネが宣教を開始した時の言葉と全く同じです。それは、イエスさまの宣教もバプテスマのヨハネの宣教も同じ神さまのご計画の中にあるからです。神さまから離れ、自分を主とし、自分勝手に歩んでいたイスラエルの民が悔い改める(μετανοέωメタノエオー、方向を転換する)ためにヨハネがそしてイエスさまが遣わされたのです。
しかし、ヨハネとイエスさまの言葉の内容に一つ大きな違いがあります。 バプテスマのヨハネは、イスラエルの民の心の向きをイエスさまに変えようとしました。それに対してイエスさまの「悔い改め」は救い主であるご自分に向かって心の向きを変えるように呼びかけました。ヨハネは自分以外のお方イエスさまを指し示し、イエスさまはご自分を指し示したことが2人の大きな違いです。2人が同じお方「イエスさまを」指し示したということをから、やはり、2人は一人の神さまの揺らぎのない御心、ご計画の中を歩んでおられたということが分かります。

2 天の御国とは

イエスさまは、「悔い改める」ことの根拠として、「天の御国が近づいたから」とお語りになります。ここでいう天の御国は、神の国、神さまが御支配される国のことです。イスラエルの人々は、神の国がもうすぐ来ること、救い主であるキリストが王になり神の国をおつくりになることも信じていました。しかし、イスラエルの民は、キリストが武力でローマを打ち破りイスラエルを国家として再興し、世界を支配してくださると考えていました。それに対して、イエス・キリストは愛によってこの世界を支配されます。イエスさまは、弱い者たちをあわれみ、癒やし、死んでいた者を生き返らせました。全く武力を用いません。戦いません。イエスさまを王とする神の国は愛に満ちた世界なのです。
イスラエルの、大きな問題は人間が生まれながらにもっている罪でした。神さまに反逆し自分を主とし、自分勝手な道をいったことがイスラエルの苦しみの大きな原因でした。彼らの罪が、自ら不幸な道を選び取ってきてしまったのです。神の子イエスさまは、この世にお生まれになり、私たちの罪の罰を受け死んでくださいました。イエスさまを信じ受け入れる者、悔い改めて神の国に入る者にいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されました。そのような愛のお方イエスさまが国王になり、その愛によって世界を御支配なさる事こそ、神さまの御心でした。

3 私たちの人生は毎日が悔い改め

宗教改革の先駆けとなったルターは、マタイの4章17節を引用して、「全生涯が悔い改め」といいました。それは、悔い改めたクリスチャンも、日々、目の前のいろいろなものに目を奪われてしまうからです。あるときは、神さまよりよいと思えるものに出会います。あるときは神さまの思いよりも自分の思いを実現したくなります。あるときは、人を裁き責めたくなります。あるときは、人と比べて自分はだめだと思ってしまいます。その目が神さまではなく、自分や他人または、なにかの事柄に向いてしまします。だから、ルターは「日々、悔い改めなさいその目をイエスさまの方に向き直り、既に入れられている神の国に戻ってきなさい。」と言いました。「悔い改めなさい」というメッセージは、未信者だけではなく、既にイエスさまを信じているものたちにも語られているのです。悔い改めてイエスさまのもとに戻ったときに平安満たされるというのは信者も未信者も同じです。私たちが悔い改めて入れられる場所は、神の国だからです。イエスさまの愛の御支配の場所だからです。そこには、平安が満ちています。イエスさまの愛で満ちています。ですから、ある人は、「人生の中で、悔い改めに勝る平安はない」といいました。悔い改めて、イエスさまのもとに戻ること、神の国入れられることはそれほどすばらしい事なのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」イエスさまは今、あなたに向かって語りかけています。私たちは、私たちは、このイエスさまの語りかけに応答したいと思います。

(2024年7月28日 石原 俊一 師)

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