よく見なさい(ルカの福音書24章36~43節)
1 はじめに
この箇所は、十字架で死んだイエス様が復活したという事実と、弟子たちがその事実をその目で見て信じたという、復活のイエス様と弟子たちの思いがついに一致した、クライマックスの場面です。それは、復活したイエス様ご自身が、何度も弟子たちに、ご自分が人間の肉体を持っていることを「よく見なさい」と示された結果でした。
2 人間の体をお見せになるイエスさま
弟子たちが集まって、イエス様が次々にそのお姿を現されたことを報告し合っているところへ、エマオで二人の弟子の前から突然姿を消した時のように、復活のイエス様は、話し合っている弟子たちの真ん中に、突然姿を現しました。弟子たちは、「 おびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思」いました(37節)。当然の反応かもしれません。なぜなら、弟子たちは、確かにイエス様が十字架の上で死んだことをその目で見て、また女の弟子たちは、イエス様の死んだ体が墓に葬られるところを確実に目撃していたからです。今、自分たちはイエス様を見ているけれど、それは見えているだけで、実は実体のない幽霊だ、という理解です。しかし、イエス様は自分は幽霊ではない、実体のある人間の体を持っていると示します。「そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」こういって、イエスは彼らに手と足を見せられた。」(38-40節)イエス様の、人の心の内を見抜く神の力をこの箇所においても見ることができますが、その他方で、イエス様は、あくまでもご自分の人間としての肉体を弟子たちに示します。ただ示すのではありません。直接その体に触るように招いています。さらに、イエス様は私には肉や骨があると、自分の肉体の中身にまで言及しています。
3 人間として食べる様子をお見せになるイエスさま
しかし、弟子たちは、「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がって」いました(41節)。イエス様に再び会えた喜びと、でも事実を受け入れられない……この弟子たちのギャップを埋めるために、イエス様はさらに、「ここに何か食べ物がありますか」と、弟子たちの目の前で何かを食べることを提案します。「弟子たちはそこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。」(42-43節)この時、イエス様が食べた魚は、幻ではありません。人間である弟子たちが調理師、イエス様に手渡した、確かな物質です。復活したイエス様は、確かに、弟子たちの見ている目の前で、焼き魚を食べたのです。食べた、というこの聖書の描写は、なんと生き生きと命に満ち溢れる描写でしょうか。イエス様が魚を咀嚼し、イエス様の内蔵が魚を消化したことさえ容易に想像できます。弟子たちは、そのイエス様が復活したという事実を、全身の感覚を持って体験的に目撃し、証人となったのです。弟子たちの実感の伴う確信、証が、彼らのその後の信仰を支えました。そして、彼らの証が、イエス様が天に昇られた後、現在の2024年に至るまで、イエス様を信じる者に与えられる救いの知らせが一人ひとりに届く源となっています。「よく見なさい」というイエス様の招きは、この後、なかなか理解されず迫害の時代をも、復活のイエス様と共に生きる「あかし人」としての生涯への招きだったのです。
4 「よく見なさい」とお語りになるイエスさま
トラウマ的なイエス様の十字架の死を目撃した弟子たちが、イエス様の救いを知らせる証びととなるというのは、普通のことではありません。弟子たちの裏切りの苦い記憶はまだ新しい状態です。ずっと信頼して、主よ、と慕ってきた人の十字架の死を目撃したのです。弟子たちが経験した暗闇はどれほどだろうと思います。しかし、復活のイエス様は、弟子たちの暗闇の中を彷徨う目を、「よく見なさい」と、ご自分のよみがえった身体に向けさせました。イエス様が、ご自分の体を触らせ、魚を目の前で食べ、信じられない弟子たちが信じられるようにしてくださったのは、彼らが、挫折から回復し、罪の赦しを経験する復活のいのちの道を歩んでいけるようにするためだったのです。
(2024年7月14日 木田 友子 神学生)