「心の貧しい者」の幸い(マタイの福音書5章3節)
1 心の貧しい者は、「心が空っぽの人」
神さまは私たちに恵みと祝福を与えようとしてくださります。しかし、私たちが自分の考えや思い込みでいっぱいだとそれを受け取ることができません。自分の拠り所でいっぱいだと神さまの恵みや祝福を注ぐことができません。神さまの恵みや祝福を一番受け取ることの出来る人は、自分の考えや思い込み、そして自分の拠り所に支配されていない人です。心の空っぽの人です。ですから、ロイドジョンズは、「心の貧しい者」のことを「心の空っぽの人」と説明しました。空の器の人には神さま御自身が入ってくだいます。ですから、その人には神さまの恵みと祝福で満ちています。神さまの愛が、神さまの力で満ちています。ですから、「心の貧しい者」である「心の空っぽの人」は幸いなのです。
2 心の貧しい者は、「自分が霊的に貧しいことを知る人」
私たちが自分の心を見つめるとき、空っぽどころか自分の考えや思いで満ちているのではないかと思えてきます。しかし、イエスさまの眼差しは、イエスさまを信じる一人ひとりを「心の貧しい者」と見ていてくださっています。イエスさまは神の子です。無限のお方である神さまです。そのイエスさまが私たちが拠り所にしている物は、全く拠って立つことの出来ない物に見えます。富も、人の役に立っている自分も、仲間も、健康も、自分の考えも、自分思い込みも、自分の正しさも、神さまからみればすべてむなしい物です。価値の無い物、0に等しい物です。ですから、イエスさまの目には、すべての人が「心の貧しい者」に見えます。心が空っぽの者に見えます。「あなたがは、私の目から見たら全く空しい者、心の貧しい者だよ。だから、その空の心に私の恵みと祝福で満たそう。」イエスさまはそのような思いで私たちを見てくださっています。
イエスさまの眼差しは愛の眼差しです。私たちを愛し、私たちを生かそうとしてくださるまなざしです。十字架の死によって私たちにいのちを与えてくださろうとする愛のまなざしです。そのイエスさまの愛を知ったとき、私たちは、自分の罪を認めることができます。自分の心が貧しい者であること、自分が空っぽであることを認めることができます。「自分が霊的に貧しいことを知る者」であることを知り、「心の貧しい者」であることを認めることができます。TEVというアメリカで発行された聖書は、「自分が霊的に貧しいことを知る者」と訳しました。自分が霊的に貧しいことを知っている者、認めている者は幸いなのです。
3 心の貧しい者は、「神に寄りすがる人」
私たちが、イエスさまの愛の眼差しの中で、自分が「心の貧しい者」であることを認めることができたら、私たちの歩みはどうなるでしょうか。塚本虎二先生は、「心の貧しい者」を「神に寄りすがる貧しい人たち」と訳しました。塚本先生は、イエスさまの愛と自分の心の貧しさを知った者は「神さまに寄りすがる者」なのだというのです。神さまの愛と自分の心の貧しさを知った者は神さまの寄りすがるしかありません。神さまにお頼りするしかありません。たとえ、先の見えない未来であっても、神さまに御委ねします。悲しい出来事にあっても悲しみながら神さまのもとにいき、すべてを神さまに御委ねします。理不尽な出来事にあったときも、やりきれない思いをもって神さまのもとにいき、すべてを御委ねします。そして、私たちはイエスさまの愛の眼差しの中で一歩を踏み出していくことができます。イエスさまの御支配の中を安心して歩み出すことができます。神さまに寄りすがる心の貧しい者は幸いな者なのです。
4 神の国の支配を広げるイエスさま
天の御国とは、イエスさまの王国です。神さまが御支配される世界です。「心の貧しい者」は神に寄りすがります。神さまに御委ねします。神さまの御支配を受けていきます。ですから、天の御国は心の貧しい人たちのものです。神さまの愛の中で心が貧しいことを認めた人は、当たり前のように神の国に入れられます。神さまの御支配を受けていきます。だから、「天の御国はその人たちのものだからです」なのです。
(2024年9月8日 石原 俊一 師)