「悲しむ者」の幸い

1 イエスさまの前で悲しむ者の幸い

悲しむ者は幸いです。それは、イエスさまが、悲しむ私たちとともにいて、私たちとともに悲しんでくださるからです。
ヨハネの福音書11章において、イエスさまは、ラザロが死んだことでマリヤが泣き、一緒にいたユダヤ人も泣いているのをご覧になりました。すると、イエスは涙を流されました。(35節)イエスさまは、この後、ラザロをよみがえらせます。悲しみが喜びに変わります。けれども、マリヤとユダヤ人が泣いているそのとき、イエスさまは、一緒に悲しみ、涙を流されます。イエスさまは、泣く者とともに泣いてくださるお方なのです。ここに慰めがあります。
ですから、イエスさまが「幸い」と言ってくださる「悲しむ者」とは、イエスさまの前で泣く者です。悲しいときは、イエスさまものとに行き、幼子のように泣ける人です。イエスさまは、一緒に悲しんでくださいます。慰めてくださいます。

2 悲しみの中でイエスさまに寄りすがる者の幸い

悲しむ者は幸いです。それは、イエスさまが、悲しむ私たちをイエスさまに寄りすがる者に導いてくださるからです。
The Messageは、4節を「あなたにとって最も大切なものを失ったと思うとき、あなたは祝福される。」と訳しています。確かに、私たちが悲しむのは、自分にとって大切な何かを失ったときです。しかし、自分にとって大切なこと、ひと、ものは、この世界ではいつか消えゆくものです。私たちは、やがて、自分が大切にしていた地位、健康、承認、愛する人などを失います。生きるとは、たくさんのものを得ていく歩みですが、同時にたくさんのものを失う歩みでもあります。私たちは、多くの悲しみを経験しながら生きていく存在です。
しかし、神さまを信じている者の歩みは、悲しみだけでは終わりません。イエスさまは、悲しむ私たちとともにいてくださります。そして、私たち自身が、イエスなしでは生きて行くことのできない空の器であることに気付かせてくださいます。イエスさまは、空の器の中に入ってきてくださいます。神さまは、私たちを、神さまに寄りすがる者、「心の貧しい者」に導いてくださいます。
ですから、私たちは、神さまの前で悲しむことが大切です。幼子のように神さまに自分の思いを祈り、神さまに導かれていくことです。神さまは、悲しむ者をイエス様に寄りすがる者に導き、慰めてくださいます。

3 自分の罪に悲しむ者の幸い

自分の罪を悲しみ、自分にとって本当に大切ないのちを失っていることに悲しむ者は幸いです。
しかし、私たちの多くは、自分の罪に気付きません。神さまに反逆し、自分を主として生きることで永遠のいのちを失ったことに気付きません。

イエスさまは、十字架にかかってくださいました。十字架の上で、「わが神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。世界のはじめから一つであった父なる神と子なるイエスさまが初めて断絶しました。どうして、イエスさまは、父なる神から捨てられたのでしょうか。それは、私たちの罪のためです。私たちの罪があまりにも重く、私たちは神さまに裁かれ、神さまから捨てられる存在でした。しかし、全く罪のない、神の子イエスさまが、私たちの罪の身代わりとなって罰を受け、父なる神から捨てられました。イエスさまの十字架のおかげで私たちは罪が赦され、永遠のいのちをいただく者とされました。イエスさまの前で泣き、イエスさまに寄りすがる者は、イエスさまの愛の中で自分の罪の実体に気付かされます。

パウロは、ローマ人への手紙7章24節で、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫びました。これこそ、自分の罪と本気で向き合い、自分の罪を心から悲しんだパウロの叫びです。イエスさまの十字架の恵みはパウロに注がれました。25節でパウロは、「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」と祈ります。イエスさまの十字架によって、パウロにいのちが与えられました。パウロはそのことを確信し、神さまに感謝します。本気で自分の罪に悲しんだパウロは、神さまの深くて大きい慰めをいただくことができたのでした。

私たちも神さまからの深くて大きい慰めをいただきたいと願います。そのためには、まず、イエスさまの前で、幼子のように自分の思いを祈ることです。すると、神さまは、私たちが自分の罪と向き合うように導いてくださいます。私たちが自分の罪に悲しむそのとき、イエスさまは、御自身の十字架の故に、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいます。ここに深くて大きな慰めがあります。

(2024年9月15日 石原 俊一 師)

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