「柔和な者」の幸い(マタイの福音書5章5節)
1 「柔和な者」とは
「柔和な者」とは、「踏まれたら、踏まれたまま、イエス様に向かう人」です。神の国の王であり、柔和でへりくだったお方であり、私たちの救い主であられるイエスさまに向かうのです。私たちは、人とのかかわりの中で、嫌な仕打ちにあうことがあります。自分の正しさを押し通そうとする人がいます。力を行使しで自らの思いを遂げようとする人がいます。「柔和な者」とは、そのような人々に踏まれて痛かったら「イエスさまに痛いです」と祈る人です。つらかったら「イエスさまつらいです」と祈る人です。嫌だったら、「イエスさま嫌です」と祈る人です。
柔和な者は、イエスさまを主としています。イエスさまが神の国の王であることを信じています。イエスさまがこの問題に対して主権をもち、いっさいを導いてくださることを信じています。ここから先のことの一切をイエスさまに御委ねします。ですから、自分自身には全く力みがありません。力が抜けています。柔和さとは、このイエスさまにすべてを委ねきった、力の抜けた状態から生まれます。ですから、イエスさまが語られる柔和というのは、性格ではありません。柔和は、イエスさまに一切を委ねる信仰から生まれるのです。
2 柔和な者の歩み① イエスさまに導かれながら人と人の信頼関係のもとで解決する
柔和な人は、踏まれたら踏まれたままイエスさまに向かう中でイエスさまに導かれます。その歩みにそのそのときによって異なります。今回は、3つの歩みを紹介します。
「柔和な者」の歩みの一番目は、「イエスさまに導かれながら人と人の信頼関係のもとで解決する」歩みです。まず、「踏まれたら、踏まれたまま、イエス様に向かいます。」しかし、泣き寝入りはしません。踏まれた相手を信頼して対応します。すると、相手もその信頼に答えてくれます。家族や教会など、日常のコミュニケーションではこれが一番多いように思います。
ここには、相手を変えようという力みがありません。神さまと私と信頼関係を人と人との信頼関係につなげていくコミュニケーションがあるのです。それは、神さまが導いてくださり、神さまが喜ばれるかかわりです。
3 柔和な者の歩み② イエスさまの導き受けながら歩みぬく
しかし、私たちの歩みのすべてそのようにならないというのも事実です。理不尽な踏まれ方をしてどうにもならないときです。
そのような場合、柔和な人の歩みの2番目としや「イエスさまの導きを受けながら歩みぬく」という歩みがあります。 「踏まれたら、踏まれたまま、イエス様に向かう」という基本は同じです。イエスさまに向かい、すべてをお話ししたら、また歩み出します。そこで、つらいことがあったら、「イエスさまつらいです」と祈りまた歩み出します。無力と不幸に憤る中で人に向かったり、力を行使したくなります。そのとき、その思いをもって、イエスさまに向かいます。決して怒りに燃えて仕返しはしません。力は行使しません。つらくて苦しいですが、この場所に神さまの祝福があることを信じて待ち望みながら歩み抜きます。「踏まれたら、踏まれたまま、イエス様に向かう」歩みの中でイエスさまに導きに希望をもって歩み続けるのです。それは、神さまの前に幼子のような力みのない柔和な歩みです。イエスさまは、その歩みを全うさせてくださいます。
4 「柔和な者」の歩み③ イエスさまの導きの中で自分の大切なものを手放す
柔和な者の歩みの第3番目は、「イエスさまの導きの中で自分の大切なものを手放す」という歩みです。TCUで私たちに教えてくださっている木内伸嘉先生は、「信仰とは最終的にこの世に対して期待を持たなくなった人だ」といいます。私にはまだまだこの世に対して、無くてはならないもの、期待する物、失ったら悲しむものがたくさんあります。この世に対する期待を捨てきることができないことを思わされます。しかし、木内先生が語られることは、イエスさまを信じる者が導かれる方向です。私たちは、理不尽に思えるような出来事ので、イエスさまに向かいます。その歩みの中でイエスさまは、私たちがにぎっている物、大切な物を「手放せ」と語られるときがあります。神さまの主権の中で、私が捨てられないものを手放すことがみこころであることを示されることがあります。そのとき、私たちはすべてをイエスさまに御委ねします。イエスさまの導きの中で自分の大切な者を手放します。一切をイエス様に委ねたその姿は柔和そのものです。そのような者をイエスさまは「幸い」といってくださいます。そして、イエス様は柔和な者を神の国に入れてくださいます。柔和な者は神の国、新しい地を受け継ぐのです。
(2024年9月22日 石原 俊一 師)