哀しむということ(哀歌1章)
1 哀しみとは学ばねばならないもの
ドイツの精神分析家エーリッヒ・フロムは愛について、「愛とは技術である」と語り、愛とは一時的な感情ではなく、学んでいくべき技術であると語っています。「哀しみ」(悲しみと同義)もまたクリスチャンにとって、学ばなければならない大切なものです。聖書は「哀しみ」を信仰と密接につながっている感情・心の動きとして記しています。
2 「哀しみ」を教える書
「哀歌」は、神を信じる者がどのような哀しみを持つべきか、あるいは神ご自身が人間に対してどのような哀しみを抱えているのか、を教えてくれる書です。哀歌は、バビロン帝国によって滅されるユダ王国の歩みを目撃した著者(おそらくエレミヤ)によって記されました。一つの王国が滅亡した現実だけではなく、むしろ哀歌のヘブル語聖書のタイトル「エーカー」(「それはどうしてなのか」の意)が示すように、滅亡の要因となったユダ王国の罪に対する哀しみが中心となっています。
3 イエス様は「悲しみの人」
「哀しみ」に私たちが注目しなくてはいけない大切な理由はイエス様ご自身にあります。イザヤ書53章3節にはイエス様が「悲しみの人」として預言されています。またイエス様ご自身、「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(マタイ23:37)と哀しんでいる姿が記されています。イエス様の生涯の根底には人々に対する「哀しみ」が存在していたのです。
4 哀しみの根源にある「繰り返される罪」
哀歌のすぐ前にある「エレミヤ書」にはユダの民が偶像礼拝の罪を犯していたことが記されています。哀歌の作者はこの罪を悲しんでいますが、1章8節に「エルサレムは罪に罪を重ねた。そのため、汚らわしいものとなった。」とある通り、罪の最も恐ろしい性質は「繰り返される」「止められない」という所にあるのです。繰り返される罪、そしてそこから悔い改めることもできずに滅亡へ向かってまっすぐに歩んでいくユダの民の姿に、作者は深い哀しみを感じています。
5 哀しみから生まれるもの
哀歌から「哀しむ」ことを学ぶとき、それはまず自分自身に対して向けられます。ユダの民と同様に罪を繰り返し、止めることのできない自分の姿に気づき、哀しむことが「悔い改め」の第一歩目となります。そして罪を止めることのできない自分のために、イエス・キリストの十字架の贖いがどうしても必要であったことに目を開かれます。また他人に対しても、哀歌作者が滅亡へと一直線に進むユダの民に哀しみを覚えたように、私たちも同情と助けの手を延べる心が与えられます。それは愛のわざや、救い主へ導く伝道へとつながっていきます。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:4)
(2024年10月6日 髙橋 拓男 師)