「義に餓え渇く者」の幸い(マタイの福音書5章6節)

1 「飢え乾く」とは

「餓え渇く者」とは、食べ物も水分もなくなり苦しんでいる者です。人が餓え渇きを感じるというのはとても大切です。もし、自分が餓えていること、渇いていることを自覚しなかったら、真剣に食べたり飲んだりしようとしません。欲したりしません。人は餓えや渇きを感じなければ死んでしまうのです。
「餓え渇き」という言葉には、精神的な意味で、「求めても得られないものを強く求める、欲する」という意味あります。すると、「義に飢え乾く者」とは、「正しさという求めても得られないものを強く欲する者」という意味になります。いったいどのような人なのでしょうか。

2 律法によって「神の義」を示す神さま

この世界において、私たちは何かを規準として、正しいか、正しくないかを判断します。私たちクリスチャンには聖書が与えられています。律法が与えられています。聖書の言葉や律法を守ることは、正しい歩みをすることです。律法のことばを要約すると、「神を愛すること」、「人を愛すること」です。御言葉を守り、神さまを愛すること、人を愛することは、クリスチャンにとって正しいことです。
しかし、御言葉の規準はあまりにも高く、人は御言葉に向き合うとき、とても到達できないことを自覚します。実は、ここに律法の目的がありました。アダムとエバが罪に陥って以来、人は自分の罪に無感覚になりました。自分では罪に陥っているつもりはなく、たくさんの問題行動をしているというのが人の姿です。
恐ろしいのは、人が、弱さや罪に気付かないことです。気付かないまま神さまに反逆し、人を愛することができずに歩み続けます。人が食べ物や飲み物に対して、餓えや渇きを感じなければ死んでしまうように、自分の弱さや罪に無自覚で渇いていることに気付かなければ、霊的に死んだ状態のままです。人は、無意識無自覚の内に罪の中を歩み、自分では悪いことをしていることに気付かないまま死んでいくのです。
そこで、神さまは人に御言葉を、律法を与えました。神さまの正しさを示しました。。律法は、神さまの前に誰も正しい人がいないということがいないとを明らかにするため、私たちが無意識無自覚のまま滅びていかないようにするためでした。御言葉や律法によって無感覚な人間は、自らの罪を自覚させられるのです。

3 「義に餓え渇く者」とは

神さまは、クリスチャンに御言葉を示し、その人の弱さを罪を明らかにします。イエスさまから離れてしまったことを痛み、苦しみます。そして、自分の弱さや罪を認めます。神さまと人に、「私は罪人でした」「私には信仰がありませんでした」と告白します。そして、イエス様に立ち返ります。飢え乾く者のようにイエスさまに寄りすがります。私には待ったく義はありません。正しさはありません。私の義はイエスさまにしかないからです。
このように、自分には全く正しさがないことを認め、餓え渇くように義なるイエスさまに寄りすがる人こそ、「義に飢え乾く者」です。イエスさまは、私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さいました。イエスさまは、私たちが神の義に生きる道を作って下さったのです。ですから、私たちクリスチャンは、イエスさまに寄りすがります。自分には全く義がないことを認めて、義なるイエスさまが生きて下さることを請い願うのです。

4 「義に飢え乾く者」の歩み

「義に飢え乾く者」の歩みは、自分の弱さや罪を示されては、イエスさまのもとに立ち返る歩みです。餓え渇くように義のお方イエスさまに寄りすがる歩みです。1度や2度ではありません。生涯をかけて、神さまは私の弱さや罪を示してくださいます。ですから、「義に飢え乾く者」は、生涯をかけてイエスさまに立ち返ります。
神さまは「義に飢え乾く者」をただ渇きっぱなしにはしません。本人の気付かないところで、イエスさまの愛で満たしてくださっています。ですから、その人から神の義が溢れ出ます。その人は、その人の中でイエス様が生きて働き愛の働きをしていることに気付きません。神さまは、私たちのために、弱さや罪に対して自覚させますが、義の歩み、神を愛すること、人を愛することに対しては無自覚にさせるようです。そして、私たちは100%満たされるときがきます。それは、私たちが天の御国に入れられた時です。

(2024年10月13日 石原 俊一 師)

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