「あわれみ深い者」の幸い(マタイの福音書5章7節)
1 イエスさまはあわれみ深いお方
聖書は、イエスさまこそあわれみ深いお方であることを示しています。聖書の中に「あわれみ深い」という言葉が出てくるのは、このマタイ5章7節とヘブル人への手紙2章17節です。イエスさまは、神さまと私たち人間の間に立って取りなす大祭司となってくださいました。旧約聖書の時代、祭司は、イスラエルの罪に対する神さまの怒りを宥めるために、羊をいけにえとして献げ、神さまと人との間を取りなしました。神の子イエスさま御自身がいけにえとなり死ぬことによって、私の罪による神さまの怒りを宥めるためでした。大祭司イエスさまの十字架は、罪にくるしむ私たちに対する愛とあわれみ故でした。
2 「あわれみ深い者」とは
「あわれみ深い者」とは、「私にイエス様のあわれみが深かったように、この人にもイエスさまのあわれみが深くあることを信じて、共に歩む人」です。
人から踏まれてつらい状態にあるとき、つらいままイエスさまのところにいったら、イエスさまはその歩みを最後まで導いてくださいます。ですから、「あわれみ深い者」は、踏まれてつらがっている人がいたら、その人と痛みをともにし、一緒にイエス様のところに行きます。イエスさまはその人を最後まで導いてくださいます。
イエスさまから目をはなしてしまい、義に餓え渇いているとき、あわれみ深いイエスさまは私を立ち返らせてくださいます。だから、あわれみ深い人は、イエスさまから目を離してしまい、苦しんでいる人を満ちたらせてくださることを信じています。ですから、イエスさまから目を離してしまう人がいたとしても裁いたりしません。その人と一緒にイエスさまのところに行き、一緒にイエスさまのところに立ち返ります。
「神さま、自分には、弱さと罪しかありません。私は、霊的に貧しい者です。」と祈るとき、イエスさまは深くあわれみ、十字架にかかってくださいました。ですから、「あわれみ深い者」は、罪に苦しむ人と共にイエスさまの十字架を見上げます。すると、イエスさまは、その人の罪を赦してくださいます。
「あわれみ深い者」は、自分がどれだけ問題を抱えた罪人だとしても、イエスさまが憐れんでくださり、愛をもって導いてくださったことを知っています。ですから、どんなに問題を抱えている人でも、イエスさまがその人を憐れんでくださることを信じて、一緒に歩むことができる人のことをいうのです。
3 自分のあわれみのなさを示され続ける私たち
人はみな人に憐れみを示すことのできなかったという経験をもっています。しかし、ほとんどの人は、そのことに無自覚です。人は自分のあわれみのなさ、冷たさに気付きません。私たちがいかにあわれみの無い者であるかを自覚させるのは、御言葉と聖霊の働きです。ですから、真実にあわれみ深い者は、自分のあわれみのなさ、冷たさが示され続ける人です。
私たちは、なぜ、自分のあわれみのなさに気付かないのでしょうか。それは、自分が正しいと思っているからです。「自分が正しい」と思うと、その正しさだけが、その人の中心を占め、「正しくない」とされる相手の痛み、悲しみ、傷つきに気付かなくなってしまうのです。私たちは、この正しさが人からあわれみを奪うことに十分留意したいと思います。
4 あわれみを受ける私たち
自分にはいかにあわれみがないかを知り、イエスさまのもとにいく人は幸いです。なぜでしょうか。それは、そのような全くつめたい人間である私にイエスさまが憐れみが注がれるからです。こんなあわれみのかけらも無いような私をイエスさまがあわれンでくださいました。この私のために十字架にかかってくださったのです。私たちは、自分の罪の実態を知るたびに、私に対するイエスさまのあわれみがいかにに真実で感謝なことかを知らされます。自分の隣人も自分と同じように、イエスさまのあわれみを受ける人だと信じ、共に歩める人に変えられて行くのです。その人は、すでにイエスさまのあわれみをいただいています。ですから私たちは、イエスさまのあわれみを慕い求めていきましょう。
(2024年10月20日 石原 俊一 師)