十字架上のイエスさまを見上げて(マルコの福音書8章33~37節)

1 十字架の苦しみを理解する

私の恩師、大学時代KGKの指導をしてくださった美川漾子先生は、「イエスさまの苦しみは、人にはわからない。けれども、人は自分の罪を知るとき、イエスさまの苦しみの片鱗を知ることができる」と教えてくださいました。私たちは、神さまの前に立つとき、自分の姿が示されます。自分を主とする自分、自分の正しさを主張する自分、神さまに従うことのできない自分が示されます。罪に陥ると苦しみます。神さまが見えなくなったと感じます。なんとも言えないようなむなしさを経験します。しかし、苦しみの中で、ついに、イエスさまの前に出て行きます。自分の罪をすべてイエスさまに告白します。そして、すべてをイエスさまにお委ねします。自分の罪をすべてイエスさまの十字架につけてしまいます。
そのときです。そのとき知ります。イエスさまの苦しみは私の罪の苦しみだったことを。この私の罪のためにこんなに主が苦しんでくださったのです。イエスさまは、十字架の意味や目的をすべて知っていました。しかし、イエスさまが「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばなければならなかったほど私の罪はあまりにも大きなものでした。私の罪の罰は、あまりにも大きいものでした。
私たちは自らの罪の故に、神さまに捨てられるはずでした。しかし、自分の罪の告白をした私たちは、イエスさまの十字架にあって、赦されていることを知ります。神の子とされ、神さまの愛の御支配の中に入れられていることを知ります。そして、全くの平安の中に入れられます。イエスさまが私たちが受ける罰を受け、神さまから捨てられ、死んでくださったおかげです。

2 弱さ丸出しで神さまに向かう

イエスさまは、神さまに捨てられ、神さまの御顔が見えなくなりました。そのとき、苦しみの中でイエス様は、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と、幼子のように神さまを呼び、神さまに寄りすがりました。苦しみの中で、イエスさまの神さまに対する信頼は変わりません。イエスさまは神さまから捨てられたという絶望のただ中で神さまを信頼し、神さまに向かいました。神さまを見失っても、幼子のように神さまを呼び求めました。このようなイエスさまの姿は、私たち神さまを信じる者の模範です。
私たちが、人生の中で苦しみに合うとき、陥りやすい過ちがあります。それは、勝ち気です。私たちの心には、負けたくない。自分のがんばりでその苦しみを乗り越えたいという思いが潜んでいます。私たちに自分の力でその苦しみを乗り越えようとする弱さがあるのです。
ですから、私たちは苦しみの唯中で十字架上で叫ばれたイエスを見上げます。格好をつけなくてもいいのです。神さまが見えなくてもいいのです。大恥をかいてもいいのです。罪のどうしようもないありのままの姿でよいのです。ただ、十字架におかかりになったイエスさまを見上げます。自分の惨めさを認め、自分の罪を認め、自分で自分をどうすることもできないそのままの姿丸出しで、大恥丸出しでイエスさまに向かうのです。悲惨な状況の唯中で、イエスさまへ信頼し、寄りすがるのです。そのとき、イエスさまは、神さまと私を取りなしてくださいます。自分に死ぬこと、敵を愛すること、自由になることなど、主の御心の道へ導いてくださいます。

3 神の愛の中を生きる

イエスさまは、神さまから捨てられました。イエスさまは絶望と苦しみの中に入られました。そのとき、父なる神さまはどれだけ痛んだでしょうか。私たちは、イエスさまが「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫んだとき、父なる神さまも自分の子を捨てることを痛み、苦しんでいたことを忘れてはなりません。できることなら、自分がこの苦しみを父なる神さま御自身が受けたいと思ったかも知れません。それでも父なる神さまは、イエスさまをお捨てになりました。御顔をお隠しになりました。そして、すべての人の罪をイエスさまに負わせました。
それは、神さまの私たちに対する御愛です。ヨハネの手紙4章10節に、「私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。」とあります。神さまは、宥めのささげ物としてイエスさまを使わし、十字架に付けられました。その結果、神さまはイエスさまの叫びをお聞きになります。ここに愛があります。それほど、神さまは私たちを愛されたのです。
私が自分の罪に気付かされ、苦しみ、イエスさまの救いをいただいたのは、神さまのこの愛が私に注がれたからでした。自分の罪と向き合うことはつらいです。しかし、私たちは、その歩みの中に、イエスさまの十字架の奥に神さまがおられること、そしてその神さまの愛が私たちに注がれていることを心に留めたいと思います。

(2024年11月3日 石原 俊一 師)

 

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