「心のきよい者」の幸い(マタイの福音書5章9節)
1 「心がきよい者」とは
「心がきよい者」の原語は、「心が単一な者」という意味です。単一とはその心に神さま以外の不純物がないということです。「心がきよい者」は、ただ神さまだけに支配されています。その心がただ神さまで満たされています。神さまに完全に服従しています。「心がきよい者」は神さまの光を100%受けています。ですから心に闇がありません。神さまの愛とあわれみをいただき、生き生きと歩んでいる人です。その心は平安で満たされています。ですから、「心がきよい者」は幸いです。
2 「心のきよい者」ではない私たち
キリスト者は、イエスさまを信じています。その心にイエスさまをお迎えしています。しかし、100%神さまに支配されることの難しさを感じます。それは、キリスト者の心に神さまではなく、自分を主とし、自分の思いに従って生きたいという混じり物があるからです。私たちは、イエス様を信じたといっても、なかなか100%信じ従いきることができません。この世のものを大切にして失いたくない物があります。自分の考えが一番正しいいとそれを押し通したくなります。神さまの命令といってもそれに従いたくない心があります。
しかし、私たちは、なかなか自分の実体に気付きません。自分を主とする自分は、イエスさまの光をうけることを拒否します。つまり、自分を主とする自分は闇の中にいるのです。そこで、イエスさまはそのお言葉をもって私たちの心に光をあてようとしてくださいます。自分の中の不純物に気付かせようとしておられるのです。
3 「心のきよい者」になるために
人の中の「混じり物」、「不純物」つまり、神さまに従わず、自分を主とする部分、心の闇の部分に光が当てられたとき、私たちはどのように歩めばよいのでしょうか。それは、明らかにされた自分を隠すのではなく、光の中に出していくことです。主の御前を自分自身、恥ずべき内面をさらけ出すことです。神さまに示されたそのままの姿で神さまの前に出て行きます。そして、「この罪人を憐れんでください」「信仰のない私を助けてください」と祈ることです。自分自身を神さまの前に差し出し、神さまの取り扱いを受けるのです。
すると、神さまが、その人の闇に光をあててくだいます。その人の闇の部分が闇でなくなります。そのように神さまは、導かれ、その人の心を単一にしてくださいます。その人を「心のきよい物」にしてくださるのです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1章9節)」という御言葉があります。私たちが自分の罪を告白するなら神さまは罪を赦し,私たちをすべての不義からきよめてくださるのです。
4 心のきよい者は神を見る。
それでは,心の清い者が神さまを見るとはどういうことでしょうか。悪いことをして,両親から問い詰められる子どもの姿を思い出してください。両親は,自分の子どもが悪いことをしたと,子どもの様子から分かります。いつもは,笑顔いっぱいで両親に向かってくる子どもが,両親の顔を,目をみることができません。それと同じように、心に闇をつくると,神さまの御顔を見ることができなくなる。これが私たちの姿です。
実は,神さまは,いつでもどこでも神さまの姿を見せてくださいます。しかし,罪を犯し,心に闇を作った人間の方が神さまから目をそらします。だから,神さまが見えないのです。今は,神さまがはっきりと目に映るということはないかもしれません。しかし,自分の罪の思いを神さまに訴えていったとき,恵みと祝福,そして平安を体験することができます。そのとき私たちは神さまの働きを見ることが出来ます。
やがて,新し天と地で,私たちは,御顔を仰ぎ見るそのときが来ます。そのときを楽しみにしたいと思います。そのときまで私たちは,心のきよい人 として歩んでいくことを求めていきたいと思います。
(2024年12月10日 石原 俊一 師)