「平和をつくる者」の幸い(マタイの福音書5章9節)

1 「平和をつくる者」とは

「平和」には、εἰρήνη(エイレネー)という一つの言葉で、平和と平安と両方の意味があります。元々は「休息」という言葉から派生した言葉です。そして、「平和をつくる者」と訳されている言葉、εἰρηνοποιός(エイレーノポイス)は、辞書を見ると、「意見が合わない人々を和解させ、平和(平安)をもたらすように努める人」と出ています。ですから、ただ平和運動をする人が幸いという訳ではありません。対立による争いや諍いを治め、平和や平安をもたらすことのできる人こそ、「平和をつくる者」です。

2 人との平和、神との平和

いろいろな考えを持った2者が存在するとき、平和の必要性が出てきます。そのように考えると、いろいろな平和があります。まずは、人と人の平和です。戦争は、人の集まりである国と国の対立です。私たちクリスチャンが戦争をなくし、国と国との平和をつくる者になることは、神さまの御心です。さらに、個人と個人の間において、平和をつくる者になることも大切です。
もう一つの平和があります。それは、神さまとの平和です。しかし、人は神さまと対立します。それが国家の場合は、神と国家との平和があります。そして、大切なのは、神と一人ひとり、個人との平和があります。アダムとエバが神さまに背いて以来、人は神に反逆する者になりました。神との平和を失ってしまったのです。ロイドジョンズは、「罪の問題…人間の欲情、貪欲、利己性、自己中心。これこそあらゆる問題と不一致の原因です。」といいます。
イエスさまは、人と神さまの対立という根本的な大問題を解決するためにこの地上に来られました。イエス様こそ、平和をもたらすことのできる人です。
私たちは、イエス様を主として、イエスに従うことで神さまとの平和が与えられます。神さまと和解した時の心の平安は、本物の平安です。「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)「平和をつくる者」は、この和解の務めを実行する者です。

3 クリスチャンが争う理由

ところが、クリスチャンにも争いがあります。対立や諍いがあります。なぜでしょうか。一つめの理由は、自分がだけが正しいと思うからです。二つ目は、自分が上に立ちたいという気持があるからです。三つ目は、相手への配慮が足りないということです。配慮に関して失敗しない人はいません。配慮に関しては、失敗をとおして学ぶ姿勢が問われます。たくさんの失敗から配慮を学ぶ人になりたいと思います。

4 「平和をつくる者」になるために

私たちの中にある対立、諍い、争い。それは、クリスチャンにとって不純物です。私たちに対立や、諍いや争いがあるということは、心に不純物、自分を主とする心、神さまに従うことのできない心、心の闇がある証拠です。自分では、心がきよいと思っていたのに、自分の中で起きる対立、諍い、争いという事実が自分の中の不純物に気付かせてくれるのです。
私たちは、自分の中の不純物を神さまの光の中に出していきます。神さまに取り扱っていただきます。「自分は正しいと思います」と神さまのの前で主張します。納得が行くまで神さまの前に自分の思いを訴えていきます。それは、自分の正しさを神さまに認めていただくためではありません。そのように思う自分が神さまに取り扱われるためです。神さまに本気で神さまに祈って、神さまの答えを聞いていきます。すると、神さまが答えを与えてくださいます。神さまの答えが「自分が間違っていた」であれば神さまの前に頭を下げます。しかし、そうではない導きを受ける時もあります。そのときは、神さまの導きに従います。大切なことは、自分のありのままで神さまの光の中にでていって神さまの取り扱いを受けることです。すると、神さまがそのように祈る人の不純物をとり除いてくださいます。そして、「平和をつくる人」対立や諍いをするのではなく、和解を創り出す人に導いてくださいます。

5 「平和をつくる者」は神の子どもと呼ばれる

イエスさまは、「平和をつくる者」は神の子どもと呼ばれるといいます。もちろん、人間が神になるわけではありません。イエスさまが神さまを父と呼ぶように、「平和をつくる者」も神さまを「お父様」と呼ぶことの出来る者になるということです。
私たちは、自分の不純物を神さまに告白し、100%神さまにしたがう者になることを求めます。それは、神の御霊に導かれる人です。神さまは、そのような人を奴隷のように取り扱いません。自分の子どもとしてくださいます。神さまとの人格的な関わりを与えてくださいます。

(2024年11月17日 石原 俊一 師)

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