「迫害されている者」の幸い(マタイの福音書5章10~12節)
1 迫害する者とは?迫害された者とは?
「義のために迫害されている者」がいるということは、「義のために迫害する者」がいるということです。いったい、迫害する者とはどのような者でしょうか。
ルカの福音書18章10節~13節を読むと迫害する者の特徴がよく分かります。
パリサイ人は、自分が奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないと祈りました。週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げていると祈りました。彼らは、「自分たちは律法を守っています。」「自分たちは義人です。」といっているのです。
イエスさまは、「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。」といわれました。イエス様は、パリサイ人を義とは認めませんでした。
イエスさまから、このように言われたパリサイ人はどのように感じたでしょうか。彼らは、自分たちが正しい生き方をしているということを自分達の人生のよりどころとしていました。自分たちは律法を守っている。自分たちは義人。あんな罪人の取税人とは違う。これが、彼らの人生の支えでした。ここに彼らのプライドがありました。しかし、イエスさまは、パリサイ人の人生を否定しました。自分を否定された彼らは、イエスさまを憎みます。イエスさまを迫害します。そして、イエス様を十字架につけます。
「義のために迫害する者」はパリサイ人をはじめとする多くのユダヤ人でした。そして、迫害されたのはイエスさまです。
2 どうしてイエスさまは、パリサイ人を否定したか
どうして、イエスさまは、パリサイ人を否定したのでしょうか。そのヒントとなる御言葉が、ローマ人への手紙3章20節「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」です。
パリサイ人は、自分達が律法を守っていると思っていました。しかし、律法をいくら本気で行おうとしても人は義と認められません。人は、もともと罪人です。いくらがんばっても律法を完全に守り、神の前に義とは認められません。そして、神の前に、律法に対して真実に生きようとすると、律法を通して生じるのは罪の意識です。そして、神の子であるイエスこそが義のお方です。自らの罪を認め、イエスさまに寄りすがる者に義を与えるのもイエスさまです。ですから、イエスさまは、神さまの前に真実に生き、自分が罪人であることを認めて赦しを願う取税人を義としました。イエスさは、パリサイ人が自らの姿に気づき、取税人ようにイエスさまに寄りすがる者になることを求めました。しかし、パリサイ人はイエスさま拒絶し、イエスさまを迫害しました。
3 「義のために迫害されている者」とキリスト者
義のお方であるイエスさまのために迫害されるキリスト者も、「義のために迫害されている者」です。なぜ、イエスさまを信じる者がイエスさまのために迫害を受けるのでしょうか。それは、イエスさまと似たものになったからです。自分が罪人であることを認め、ただイエスさまのあわれみにすがる者にイエスさまはイエスさまの義を与えてくださいます。それだけではありません。イエスさまを受け入れる者にイエスさま御自身を与えてくださいます。心が貧しく、悲しむ者、柔和な者、義に餓え渇く者、あわれみぶかい者、心のきよい者、平和をつくる者であると。それは、ただ、イエスさまの働きです。
迫害する者は、キリストと似た人を見ると自分を義とする生き方を否定されたとように感じます。イエスさまにあって生き生きと歩む者をみると、自分の不真実な義が脅かされるように感じます。それから、イエスさまを信じる人は、自分を主とする自分には従ってくれません。自分の思いどおりに生きてくれません。キリスト教が広がると、自分に従わないものが増えていき、自分の権力を奪うのではないかと不安になります。そのため、やがて、ローマ帝国をはじめ、多くの支配者がキリスト者を迫害するようになりました。
4 天の御国はその人たちのもの
「義のために迫害されている者」とは、迫害者からイエスさまと似た者になったことを認められた者です。ですから、イエスさまは、「義のために迫害されている者」に「天の御国は、その人たちのものだからです。」といいます。「義のために迫害された者」は、自分たちがイエスさまに似た者になったことを喜ぶことができます。そして、すでにイエスさまの御支配の内に入れていただいていることを喜ぶことができます。
(2024年11月24日 石原 俊一 師)