アブラムは義と認められた(創世記15章1~6節)
1 「アブラムよ恐れるな」
14章で勇敢な姿を見せたアブラムは、直ぐに「恐れ」をもちます。神さまを信じていなかったわけではありません。アブラムは、神さまの命令を受けて、カナンの地に来ました。神さまを信じたからこそ、親族から離れて、全く知らないカナンの地までやってきました。そのアブラハムに神さまは、「子孫が一つの国民になるほど、大きくなる」と約束をしました。しかし、現実に、アブラムには子どもがいません。神の約束と現実の間でアブラムは、「子がないまま私は死んでしまうのか」と、思い恐れたのです。
そのようなアブラムに、神さまは、「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。ということばが臨みます。神さまは、神さまを信じる者を守り、祝福してくださるので恐れることはないと言ってくださいます。信仰の人アブラムを危機から救ったのは、いつも主の言葉でした。
アブラムの神さまは、今私たちが信じている神さまと同じ神さまです。神さまは、アブラムに語られたことばと同じことばを私たちにかけてくださいます。「○○○○よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」と。
2 神さまの真実
神さまは、アブラムの真実の言葉に真実をもって応えてくださいます。「ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」力強い言葉です。神さまの圧倒的な迫りです。人間の常識を越え、経験を越えた権威ある神さまのことばです。
そして主は、彼を外に連れ出して言われます。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われました。「あなたの子孫は、このようになる。」壮大です。満天の星が夜空に輝いてます。人間には数えられなくても、手が届かなくても空の星は無数にあります。神さまの御業は人の計るところを越えて無限です。
神さまは様々な問題を抱えている私たちに対しても、同じように語ってくださいます。神さまは無限のお方です。一切の問題を解決できるお方です。私の望むとおりになるとは限りません。しかし、神さまは、満天の星のように、神の無限を示し、私たちの信仰を導こうとしてくださるのです。
3 神の言葉の真実
「アブラムは主を信じた。」(6節)短いフレーズですが、これが、神さまに導かれる者の姿です。私たちの信仰は揺らぎます。しかし、神さまは、私たちに、無限の姿を見せてくださいます。そこで、私たちは、主に立ち返ります。「そうだった。私たちは神さまを信じていたんだ。その神さまは無限のお方。私はこのお方に一切をお任せし、従っていけばいいのだ。」このように主に立ち返ることが、「主を信じた」ということです。私たちの頭では、どのようにして神さまの言葉が実現するかは分かりません。しかし、神さまがそう仰るなら必ずなると信じることです。受け取ることです。
やがて、アブラムの子孫からイエスさまがお生まれになります。イエスさまを信じるキリスト者は、信仰によってイエスさまの兄弟と言われます。つまり、すべてのキリスト者は、アブラハムの信仰の子孫です。神さまがアブラムに見せた満天の星が真実となりました。今も神さまの言葉は真実です。
4 神は私たちを義と見なしてくださる
6節には、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」と書かれています。これは、神さまを信じる者にとって大きな励ましとなる御言葉です。アダムとエバが神さまに反逆して以来、人が皆罪人です。神さまに反逆する者です。しかし、主を信じるアブラムをが義、すなわち正しい人と認められるというのです。
ここで、「認められた」と訳されているחשׁב(ハシャブ)ということばには、「見なす」という意味があります。ですから、この文は、「主は彼を義と見なした」と訳することが出来ます。「見なす」という言葉には、「実際はそうでないと知った上でそれとして見る」という意味があります。つまり、主を信じたアブラムは、罪をもったそのままで、義と見なしていただいた、義と認められたということです。罪とは神さまへの反逆です。アダムの子孫であるアブラムの中にも罪が残っています。それでも、神さまを信じるアブラムを神は義と見なしてくださるのです。
私たちも同じです。私たちの中にも罪があります。しかし、神さまを信じるキリスト者は、神さまが義と見なしてくださいます。義と認めてくださいます。義と見なしてくださいます。神さまを信じて、義とみなされた私たちは、神さまの御支配の中、神の国に入れていただくことが出来ます。
(2024年12月1日 石原 俊一 師)