目を高くあげて(イザヤ書40章18~26節)

1 はじめに

2025年は、戦後80年の年です。そこに、福島聖書教会の歴史を重ね合わせました。1984年、熊田和雄、万年純一、木田惠嗣の三伝道師が福島市に派遣され、福島伝道が始まりました。その時から41年が経過しました。イザヤ書40章は、前半のイスラエルの罪とバビロン捕囚の預言が終わり、後半のイスラエルの回復の預言の冒頭の章です。そこに記された「慰めよ」という言葉に注目し、神の慰めを受ける道を学びましょう。

2「慰めよ」

これは、クリスマスのメッセージです。ヘブライ語では、「ナハム ナハム アミ オマレ エロエヘム」と記され、「ナハム(慰めよ)」の語源は、「強く息をする」「ため息をつく」です。そこから、悔改める、あわれむ、慰めるという意味に用いられます。イスラエルがその罪のためにバビロンに捕囚となり、70年が過ぎ、人々が何の希望も可能性も見いだせず、暗黒の中に座っている時に、神は、「慰めよ、慰めよ」と希望のメッセージを語られます。神の慰めを受け取るために、40章に啓示されている四つ神のお姿に注目したいと思います。

3 解放者である神(2~5)

神は、捕らわれ人を解放し、罪の呪から私たちを解放してくださるお方です。イスラエルは、罪の報酬としてバビロン捕囚という神の懲らしめを刈り取りました。しかし、神は、70年の後、バビロンをペルシャによって滅ぼし、イスラエルの民を解放し、再び、約束の地に帰してくださいました。解放者である神、救い主である神を仰ぎます時、私たちは、罪の呪から解放され、神の懲らしめから救われ、自由にされ、慰められるのです。道を用意し、悔改める必要があります。

4 羊飼いである神(6~11)

イザヤは、人はみな草のよう。その栄はみな野の花のようだ。と語ります。確かに、人の生涯はみな空しくはかないものです。弱くはかない人間は、永遠に変わることのない、神のみことばによって生かされなければ、立って行くことができません。羊飼いである神は、私たちを、子羊を引き寄せふところに抱くように、やさしく導いてくださり、折に適ったみことばをもって養い、私たちを支えてくださるのです。この神を「見よ」と三度呼びかけられます(9,10節)。

5 創造者である神(12~26)

12節以降を読みますと、そこには、天地の創造者である神の壮大なお姿が描かれています。人間がその手で造った偶像など、足元にも及びませんし、私たち人間は、バッタのような虫けらに過ぎません。しかし私たちは、能力、資産、立場があると高ぶり、人と比較しては、一喜一憂し、創造者である神を人間と同列、またはそれ以下であると錯覚するのです。「目を高くあげてだれがこれらを創造したかを見よ(26)」と語られます。

6 永遠の神(27~31)

聖書の一世代は、約40年です。日本史の研究者は、80年サイクルで大きな変動があると語ります。明治維新1867年から、日露戦争勝利1905年の山を越えて1945年の敗戦までが、約80年。戦後、1985年バブル経済の山を越えて今日まで超低金利時代を過ごしました。復興・発展・衰退・破滅という80年周期で、経済や社会秩序が変化しているというのです。2025年はどん底から新しい時代が始まる年になるでしょうか。私たちは、永遠の神を待ち望み(31節)神の視点から時代を見たい。

(2025年1月12日 木田 惠嗣 師)

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