愛の秤(マタイの福音書7章1~6節)

1 はじめに

本説教はマタイ7:1–6を通して、「自分の秤」を捨て「イエスさまの愛の秤」を持つことの重要性を学びます。先週は「さばいてはいけません」を、自分の正しさに基づき他者を批判的に評価する態度の否定として学びました。自分の秤を捨てると、自分が赦された罪人であること、相手にも避けられない事情があること、そして相手も神の愛とあわれみの中で赦された罪人であることが見えてきます。今回は、自分の秤に代えてイエスの愛の秤を持つことをテーマにします。

2 愛の秤とは

ヨハネ8章の姦淫の女の出来事は愛の秤をよく表します。律法学者とパリサイ人は彼女を罪で訴え、どの答えでもイエスを陥れるつもりでした。しかしイエスは「罪のない者がまず石を投げよ」と語ります。すると年長者から一人ずついなくなり全員が去っていきました。罪の無い者は誰もいなかったのです。ここには愛の秤の三要素が示されています。第一に、人は皆神の秤に敗れた者だと理解すること。第二に、相手を赦すこと。第三に、赦した相手を愛しキリストに導くことです。イエスは「わたしもあなたをさばかない」と赦し、さらに「行きなさい。もう罪を犯すな」と新しい歩みへと招かれます。それは愛の秤による導きでした。

自分の秤は正しさを主張し相手を否定しますが、愛の秤は自らを罪人と認め、赦しと愛をもって関わります。相手の欠点を大きく扱うのではなく、神が私を赦したように相手を赦します。そして共にキリストの道を歩もうとします。

3 自分の秤を捨て愛の秤に

私は、ルツ記のナオミ一家を罪と罰の視点で量ったとがあります。ナオミの一家は飢饉を逃れるためにイスラエルを離れモアブに移り住みました。すると、モアブの地でナオミの夫と2人の息子が死んでしまいました。私は、この出来事は、罰の原因ではないかと考えました。しかし、黙想する中で、その考えは誤りであることが分かりました。イエスさまならナオミの痛みをを共に痛み、悲しむことに気づいたからです。私は自分の秤でナオミの家族を量っていました。しかし、愛の秤は違います。神は悲しみの中のナオミに寄り添います。そして、異邦人ルツを通してダビデ、そしてキリストへとつながる救いの計画を進められました。罪やその罰の有無よりも苦しみに共感し、神の導きを認めることが愛の秤です。私は、自分の秤を捨て愛の秤を持つことの大切さを教えられました。

4 「聖なるものを犬にやるな」「真珠を豚にやるな」とは

一見厳しい教えに見える6節「聖なるものを犬にやるな」「真珠を豚に投げるな」も愛の秤からの教えです。「聖なるもの」「真珠」は福音です。「犬」は神を恐れぬ者、「豚」は他の価値を求め福音を軽んじる者を指します。相手の状態を考えず、無分別に福音を与えると、かえって冒涜や拒否を招くことがあります。愛の秤は相手を愛しキリストに導くことを大切にします。相手のためを思い、焦って福音を押し付けない賢明さが相手を真実に生かすのです。
ここで求められる「判断」は、自分の秤による裁きではなく、愛の秤による識別です。すべての人に福音を伝える使命はありますが、相手の心の状態を見極め、時と方法を選ぶことも愛です。神を求めない人には時を待ち、別の目的で教会に来る人にはまず関係を築く必要があります。それは冷たさではなく、やがて真に福音を受け入れるための備えです。

5 おわりに

愛の秤とは、相手を愛し、キリストに導くためにどのようにすればよいか判断することです。そのためには、私たち一人ひとりが、自分の秤をイエス様の十字架の下に置き、キリストの愛を頂くことが重要です。愛の秤によって、神の愛を必要としている人々と向き合い、キリストへと導くことができるように願いましょう。今日は、あなたの人とのかかわりについて振り返ってください。本当に相手の状態を理解し、相手のために、キリストのためにかかわっているでしょうそれぞれ、神さまの示しにしたがって、これからの歩みを見直していきましょう。

(2025年8月10日 石原 俊一 師)

 

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