パリサイ人や律法学者にまさる義(マタイの福音書5章17~20節)

1 はじめに

イエスさまは、律法や預言者を成就するために来られました。しかし、律法学者やパリサイ人をはじめとするユダヤ人は、イエスさまが律法を破棄するために来られたのだと考えていました。当時のユダヤ人は、神さまの御心やご計画が全く分からなかったのです。

2 律法の成就者イエスさま

(1) 安息日の律法の成就

神さまの御心が全く分からないユダヤ人の様子が描かれている例が、マルコの福音書3章1~5節です。
イエスさまが会堂に入られたとき、そこに片手の萎えた人がいました。人々は、イエスさまが安息日にこの人を癒やすかどうかじっと見ていました。ユダヤ人は律法を解釈して、安息日に人を癒やすのは労働であり律法に反すると考えていました。イエスさまがもし安息日に人を癒やしたら、安息日に労働をしたことになり、律法を破ってよいことを認める者になります。ユダヤ人はイエスさまが律法を廃する者かを確かめようとしたのです。彼らの心は何と冷たいことでしょう。彼らは、片手の萎えた人の痛みを全く理解していません。そして、片手の萎えた人の癒やしを願うのではなく、イエスさまを訴える材料としてしかみていませんでした。しかし、イエスさまこそ律法を成就するお方でした。律法の本質は、神を愛することと、人を愛することです。イエスさまは、片手の萎えた人を癒やすことで、律法の本質を満たしました。律法を成就されたのです。
聖書には、他にも律法の本質を理解していないユダヤ人と律法を成就するイエスさまの姿が何カ所も描かれています。

(2) 十字架による律法の成就

しかし、イエスさまは、このような全く律法を守ることのできない人々を愛し、救うために、自らのいのちを捨てます。それが十字架です。イエスさまは、神を愛することの出来ない、さらに人を愛することのできない人々を愛しその罪の罰をその身に受けてくださいました。そして、イエスさまの義を私たちに与えてくださいました。それが、イエスさまの十字架です。そして、それは神さまの御心でした。イエスさまは十字架の死によって神さまを愛すること、隣人を愛するという律法を成就したのです。確かに、律法の一点一画も決して消え去ることはありませんでした。イエスさまの十字架によってすべてが実現しました。

3 律法学者やパリサイ人に勝る義

律法の成就者であるイエスさまは、弟子達に、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」と言われます。
そうはいっても、私たちには岩のような自分の正しさがあります。私たちは、どうしても律法学者やパリサイ人の義に生きてしまうものです。19節ではイエスさまが、「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。」と語られます。しかし、私たちは、イエスさまの愛の戒めを破らないと断言できるでしょうか。
私たちは、そのようにまるで自分には信仰がないこと,主への信頼がないことを認めることです。「私の中には自分の正しさという大きな岩があります。」「あなたを信じられない私がここにいます。不信仰な私をあわれんでください」と祈ります。主の御前に出て行き,「すべてをそのままお任せするしかないのが私です。」「天の御国に隅っこでもおいていただければ十分です。天国の中でもっとも小さな者と呼ばれても十分です。」と祈るのです。
私たちは、そのように、神さまの前に真実に歩む時、神さまは、私たちに義を与えてくださいます。自分の行いによる義ではありません。それは、十字架をとおして律法と預言者を成就したイエスさまが与えてくださる、イエスさまの義です。イエスさまを信じてイエスさまに拠り頼む私たちに与えられるイエスさまの義です。イエスさまの与えてくださる義は、パリサイ人や律法学者に勝る義です。ですから、安心して実態をイエスさまに祈って行きましょう。イエスさまの前に出て行きましょう。私たちが自分に死に、人を生かす事のできるのも、ただ神さまの恵みによります。律法を成就させれくださるのも、ただ神さまの恵みです。

(2025年1月19日 石原俊一 師)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です