人の計略と神の計画 (ルカの福音書22章1節~13節)

0 はじめに

ルカの福音書22章からは、いよいよ、主イエスの受難、十字架の死の場面が描かれます。2節に、祭司長、律法学者たちは、主イエスを殺すための良い方法を探していたとあります。ルカの福音書において、彼らの魂胆は、繰り返し語られて来ました。19章45~48節には、彼らが、毎日、宮で教えておられるイエス様を殺そうと狙っていたとあります。また、マルコの福音書を読みますと、イエスをだまして捕らえ、殺してしまおうと考えていた彼らですが、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と考えていたことが記されています。だれにも知られず、ひそかに、亡き者にしようと計略を巡らせていたということでしょう。

1 過越の祭り

ユダヤ人の三大祭のひとつ、過越の祭りは、出エジプト記12章に由来するイスラエル最大のお祭りで、彼らがエジプトの奴隷から解放されたことを記念するものでした。神の裁きの御使いが、エジプトに出て行った時、イスラエルの民は、彼らの罪の身代わりとなる羊を殺し、その血を鴨居に塗りました。御使いは、羊の血が鴨居に塗られた家を過越し、エジプトに裁きを行いました。その過越の祭りに殺される羊こそ、イエス様の十字架を指し示す型でした。それ故、バプテスマのヨハネは、イエス様を「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と指し示しました。そこで、このお祭りでは、羊の肉を苦菜を添えて食べ、種入れないパンを食べます。その食事のスタイルは、有名な最後の晩餐のようなテーブルを囲み、椅子に座って食べるのではなく、布団を敷き、寝そべって食べるスタイルだったと言います。ですから、ずいぶん広い場所が必要でした。イエス様は、ひそかに、そのような場所を確保しておられたのかもしれません。

2 祭司長たちの喜び

イエス様を捕らえて殺そうと考えていた祭司長たちでした(5節)が、打つ手がなくて困っていたのです。ところが、イスカリオテのユダが現われ、イエス様をひそかに渡すというのですから喜びました。

3 イエス様のお姿

この場面から浮かび上がるイエス様のお姿が3つあります。

① 慎重な場所の選定

イエス様にとって、食事の場所を知られることは、弟子たちと過ごす最後の機会を失うことでしたから、非常に慎重に、その場所を選んでいます。

② 過越の食事への熱心

それは、どうしても弟子たちと静かな食事をしたかったからです(22:15)。

③ 弟子たちへの配慮

十字架の予告を聞いても(18:34)、何一つ分からなかった弟子たちに、どうしても、ご自分の十字架の意味について語る必要がありました。

4 彼らの計略を超えて

① 祭司長・律法学者の計略を越えて

祭司長、律法学者たちは、騒動を避けるため、祭りの間はやめておこうと考えていました。しかし、それでは、過越しの子羊の本体であるイエス様が十字架にかかるべき時を逃してしまいます。

② サタンの策略を超えて

サタンは、イエス様に従う十二人の弟子の一人を裏切者とし、イエス様に最大の一撃を加えました。神様は、祭司長たちの思惑も、ユダの裏切りをも用いて、過越しの祭りの本体であるイエス様の十字架がまさに、過越しの子羊が屠られるその日とされたのです。

5 おわりに

私たちは、この摂理の御支配をなされる神を仰ぎましょう。人の計略も悪魔の策略をも超えて、神の御心は実現します。ペテロとヨハネは、イエス様のお言葉に従って、過越しの食事の準備をしました。「彼らが行ってみると、イエスが言われた通りであった。(13)」とは、驚くべき一節です。大きな喜びがあったに違いありません。神の御心が実現することを信じて、私たちにできる精一杯のことをするのが、私たちの生き方です。

(2020年11月8日 木田 惠嗣 師)

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