信じるということ-使徒信条①-(コリント人への手紙第1 15章1節~8節)
1 はじめに
「信じる」ということは、どういうことでしょうか。日本人は、信じることの力を大切にします。信じる対象は何であれ、真心から信じるなら、何か偉大な力が働くと考えます。しかし、聖書は、信じる対象、信じる内容が大切であると教えます。パウロも、「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら」「あなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら」と語ります。そこで、使徒信条を通して、信仰の入門的なお話をしたいと思います。
2 使徒信条
パウロは、私たちの信仰の内容を、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」と要約しました。2世紀ころ洗礼式の際に用いられた「古ローマ信条」と呼ばれる信条は、使徒信条にそっくりです。使徒信条は、本来、洗礼を受ける際に、私たちが何をどのように信じているのかを、次世代に伝えていくために練られた言葉だったのです。
3 信じるということ
① 三位一体への信仰
聖書の中に啓示された三位一体の神を信じることです。使徒信条の中で、「我は信ず」と繰り返されますが、父なる神、子なる神、聖霊なる神を信ずと、三位一体の神への信仰告白であることに気づきます。私たちの理想を信じるのでも、私たちの願望や期待を投影して信じるのでもなく、聖書に啓示された三位一体の神を信じるのです。
② 神の賜物として信仰(使徒3:16)
この信仰は、神の賜物で、私たちが自分の努力や知恵、また、その人の信じる能力によって信じるのではありません。神様が私たちの心に信仰を与えてくださるのです。
③ 決断としての信仰
にもかかわらず、信仰は、信じる人の個人的な決断でもあります。私たちは、神の一方的な恵みによって、この聖書に啓示された神様を信じ、神様の呼びかけに応答して、「私は信じます」と決断をするのです(ヘブル11:24、25)
④ 信仰は告白(ローマ10:10)
我は信ず」という決断は、告白されなければなりません。心の中に秘められた信仰ではなく、公に告白され、その人の言葉と行いによって、証されるものでなければなりません。
⑤ 信仰は知ること
信じるということは、知ることでもあります(ローマ10:17)。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについての言葉を通して実現するのです。」とあります。知識だけでは空しいのですが、知ることはスタートです。知って信じた内容が私たちの人生の血となり肉となって実を結びます。
(2021年2月14日 木田 惠嗣 師)