「サウルの道」からの決別(サムエル記第一13章から31章)

神さまは,イスラエルの民の要求に応えて,イスラエルの王を選びました。サウルです。しかし,サウルは,自らの道「サウルの道」を歩み,悲惨な最期を遂げました。私たちは,サウル王の失敗から学びたいと思います。

1 人を恐れ,人からの認められることを第一としたサウル王

サウルの生涯の大きな特徴は,神さまを恐れ神さまの御前に生きるのではなく,人を恐れ,人に認められることを第一としたことです。

(1) サムエルを待たず祭司の仕事をしてしまったこと(サムエル記第一13章5~14節)

ペリシテ人は,イスラエルと戦うために,海辺の砂のように数多くの兵で陣を敷きました。イスラエルの兵は恐れ震えます。このとき,サウルは,自ら全焼の捧げ物を献げてしまいます。しかし,それは,サムエルそして,神さまの命令に背くことでした。全焼の生け贄を献げることは,サムエルのような祭司にしか認められていなかったからです。神さまを恐れ神さまの命令に従うのではなく,捧げ物を献げることで,兵の心を自分に向けさせ王としての権威を高めようとしたことは,大きな誤りでした。

(2) 神さまの命令通りに聖絶しなかったこと(サムエル記第一15章1~31節)

サウル王は,アマレクとの戦いに勝利します。神さまは,そのすべてを聖絶しなさいと命令していましたが,サウルは,肥えた羊や牛の最もよい物を惜しんで殺しませんでした。自分の手柄を残し,人から称賛されたかったのです。サウルはその罪をサムエルに指摘されます。しかし,サウルは悔い改めるのではなく,イスラエルの民の長老とイスラエルの前で自分を立てることを望みます。(30節)このことでも,神さまではなく,人に認められることを第一にしていたサウルの姿がよく分かります。

(3) ダビデに嫉妬し,その命を狙うこと(サムエル記第一18章6~9節)

神さまは,サウル王を捨て,新しい王ダビデを選びます。ダビデは,ペリシテ人との戦いで大活躍します。サウルは,女たちが「サウルは千を討ち,ダビデは万を討った」と歌うのを聞き,ダビデに嫉妬します。そして,ダビデを殺そうとして追いかけます。神さまが一人一人に与えてくださった賜を生かして生きるのであれば人との比較は必要ありません。人と比較し,自分が優位に立つことを願う行動は過ちでした。

(4) さらし者になることを拒み自ら命を絶つこと(サムエル記第一31章1~5節)

サウルは,神さまではなく,人の目を意識して死んでいきました。敗戦濃厚の中で,サウルは,自分がなぶりものされることをいやがり自死するのです。しかし,サウルの死体は,敵の城壁にさらされることになります。(10節)神さまを恐れるのではなく,人の目を気にし,人に賞賛されることを望んだサウルは,その死体をに敵の前にさらされるという惨めな最後をとげました。ここに,神さまを恐れず人からの称賛を求めて生きる者の結末がはっきりと示されていると思います。

2 サウルの道からの決別

サウルにも最後まで悔い改めるチャンスが与えられていました。聖書には,「もし私たちが自分の罪を告白するなら,神は真実で正しい方ですから,その罪を許し,私たちをすべての不義から清めてくださいます」(ヨハネ第一1章9節)と書かれているからです。数々の失敗のその場所で,神さまに心からその罪を告白するなら,サウルは全く違う道を歩むことができました。剣で自死するその前に,「神さま,私は,神を恐れず,人に賞賛されることを第一にして生きてきました。私の罪をお許しください」と祈ったとすれば,神さまは,その魂を救ってくださったと思います。
しかし,サウルは最後までその選択をしませんでした。それこそがサウルの人生で一番の失敗です。神さまがサウルを捨てたのではなく,サウルが神さまを捨てたのです。
聖書には,「主は,あなたを見放さず,あなたを見捨てない」(申命記31章6節)と書かれています。 神さまは,決して私たちを見放しません。私たちを愛してくださっています。すべての人を救おうをして待っておられます。そして,神さまとともに進む人生を与えてくださいます。
私たちの中には誰にでも,人の目を気にして,人に認められたいという思いがあります。しかし,私たちが願うなら,神さまの前に自分の罪を告白するなら,神さまは,「サウルの道」とは全く違う道を与えてくださいます。それは,神さまとともに幸いな歩む人生です。私たちは,サウルの道から決別して,主の道をあゆんでいきたいと思います。

(2021年4月25日 石原俊一 兄)

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