無に等しい者(サムエル記第一16章1節~23節)

1 「無に等しい者」を選んでくださった神さま

新しい王を選ぶために,神さまは,サムエルをベツレヘム人エッサイのところに遣わしました。神さまが,エッサイの息子の中に王を見い出したというのです。サムエルは,エッサイの息子に会ったとき,エリアブを主に油注がれるものだと思いました。背は高く,容姿もよく,王としての資質を備えていると思ったのです。しかし,神さまは,「容貌や背の高さをみてはならない」といいます。そして,神さまは,エッサイが,自分の子供として紹介するのを忘れるような,数にも数えられないようなのダビデを選びました。ダビデ自身も後に自分のことを「死んだ犬」「一匹の蚤」と表現しています。無どころかマイナスの存在だと思っていました。しかし,神さまは,そのようなダビデを選ぶのです。これが神さまの選びです。
「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。…すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(コリント人への手紙第一1章26節~28節)
私たちが救われたのは,特別の能力があったからではありません。神さまが私たちを選んでくださったからです。無に等しい私をを神さまは選ばれました。これが神さまの選びです。
ですから,私たちが数に入る存在だ,立派な存在だと思えているとき,私たちは決して神さまの器になることはできません。自分には何もない,罪しかない,ダビデのようにマイナスの存在だということを認め,神さまの前に出て行くとき,神さまがその器を用いてくださるようになるのです。
私たちの歩みは,「神さま,この無に等しい器を用いてくださりありがとうございます。」という感謝の日々です。そのような者に神さまの知恵が,神さまの力が働いていきます。主の力が自らの中に働くことを喜ぶ。それがクリスチャンの姿です。

2 「無に等しい者」の平安と賛美

「無に等しい者」と反対の歩みを歩んだのがサウルです。サウルは,自分の中によいものがあることを認められることを願いました。そして,主に従わず,人との比較で嫉妬しながら歩んでいきました。その結果,サウルは悪霊に悩まされるようになります。
あまりに,サウルが苦しむので家来が連れてきたのがダビデです。悪霊がサウルに臨むとき,ダビデは琴をとり,手でそれを弾くと,サウルは元気を回復してよくなるのでした。
ダビデの奏でる琴は平安に満ちていました。不安に満ちた人がその心を静めるだけの力が
ありました。それは,ダビデの力ではありません。ダビデ自身は無に等しい者でした。ダビデの心を占めていたのは神さまでした。琴を通して,神さまの平安があふれ,不安な人の心を平安に変えたのです。
もちろん,賛美自体にも,悪の力に打ち勝つ大きな力があります。自分の不自由さを感じ,心に平安がなくても,賛美を続ける中で平安に導かれることもあります。しかし,神さまによって砕かれ,「神さま私は神さまの前に罪人でしかありません」と祈る者,「無に等しい者」の平安と,「無に等しい者」の口からあふれる賛美の平安は,本当に周りの元気を回復する大きな力になります。

(2021年5月2日 石原俊一 兄)

 

 

 

 

 

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