父なる神-使徒信条講解④-(ルカの福音書11章1節~13節)
1 日本人の神概念
日本人の拝む神々は、八百万の神々で、その礼拝の対象は、実に様々です。国語学者・大野晋氏は、「日本語をさかのぼる」(岩波新書)の中で、日本語の「カミ」という言葉は、「カクレミ」すなわち、姿は見せないけれども、私たち人間に、大きな力をもってときに災いをもたらす存在で、「カミナリ」「オオカミ」の「カミ」で、「鬼」と同義語であったと解説しています。そこで、人々は、たたりや、災いが及ばないように、カミを祀り、捧げものをしてその怒りをなだめるのです。「日本民族は、天地を貫く何かの大きな力によって愛され救われるということを知らずに生きてきた。日本語の基礎語の中に、そうした役割をする意味を持った語が無いことから私はそれを推定する。『ただ一つのもの』を呼び求める事よりも、日本人は恐るべきものには物をささげ、機嫌を静めてもらい、穏やかに対してくれるようにとりなすことを先として生きていた。」と書いておられます。ですから、大陸から、仏教が伝来した時、仏教者は、「鬼やカミに領ぜられている人々」を救いことを誇りとして生きていたとも書いています。
広辞苑を引きますと、(広辞苑 第四版)かみ【神】;①人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることのできぬ能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの。②日本の神話に登場する人格神。③最高の支配者。天皇。④神社などに奉祀される霊。⑤人間に危害を及ぼし、怖れられているもの。(イ)雷。なるかみ。(ロ)虎・狼・蛇など。⑥キリスト教で、宇宙を創造して支配する、全知全能の絶対者。上帝。天帝。と書いてあります。
実は、明治初期まで、天地創造の神という概念はなかったのです。明治になってキリスト教が解禁になり、聖書が翻訳され、その時、天地創造の唯一の神を「カミ」と翻訳したところから、日本語の「カミ」という言葉に、キリスト教的な神概念が加わったのです。それで、日本語の神概念の根底には、災いをもたらす「カミ」があり、「触らぬ神に祟りなし」ということわざは、そのことをよく表しています。
2 父なる神
ですから、使徒信条の冒頭で、「我は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と唱えることは、日本人にとっては、大きな驚きではないでしょうか。天地創造の全能の神を「父」と呼ぶのですから。
さて、天地創造の全能の神を「父」と呼ぶ信仰はイエス様が私たちに教えてくださった実に素晴らしい恵みです。本来、天地創造の神を「父」と呼ぶことができるお方は、イエス様おひとりです。三位一体の第二の位格の神であるイエスさまだけが、この方を父と呼びうるです。しかし、イエス様が、弟子たちに祈りを教えてくださったとき、この方を「父」と呼ぶように教えられました。人間の父でも、子どもには良いものを与えようと考えます。まして、天の父はどれほど良いものを与えるでしょうか。まず、イエス様が語る天の父の姿に、私たちも耳を傾けたいと思うのです。①求める者に応えてくださる父:今日読んでいただいた聖書の箇所には、印象的なたとえ話が記されています。真夜中の友人のお話です。ある人のところに、真夜中に友人が訪ねてきました。出してあげるパンもないので、友達の家に、パンを借りに行きます。ところが、もう寝てしまっていて、中からは、勘弁してくれとの声です。でも、しつこく頼むと、起きてきてパンを貸してくれるというのです。神様は、この友達以下の存在ではないというのがイエス様のたとえの焦点です。求める者には、必ず答えてくださる神様。その神様をイエス様は、父と呼べと教えられました。 ②良いものを与える父。ヤコブ1:17 ③愛の父。ルカ15:11~32.
3 神を父と呼ぶ秘訣
では、この神を父と呼び、親しい人格的な交わりを持つ秘訣は何でしょうか? ①父のもとに帰る決断 ②子を得るものはすべてを得る。アメリカで有名な一つのお話があります。’Whoever Gets the Son, Gets Everything’というおはなしです。
(2021年7月18日 木田 惠嗣 師)