我らの主、イエス・キリスト-使徒信条講解⑤-(ヨハネの福音書1章43節~51節)

1 イエス・キリストというお方

(1)驚きに満ちた方

日本で二番目に洗礼を受けた村田若狭守政矩という鍋島藩の家老をしていた人物がフルベッキに洗礼を受けたいと願い出ます。驚くフルベッキを前に、「私が初めてイエス・キリストの品性と働きとを聖書で学んだ時の感動は言葉にすることができません。このようなお方に今までお会いしたことも、聞いたことも、想像したこともありません。」と語りました。イエス様に触れた人々は、村田若狭守政矩同様、驚きに満ちるのです。 イエス様が、中風の男を癒された時、人々は、「こんなことは、いまだかつて見たことがない。」と神をあがめました。嵐のガリラヤ湖を静められた時、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。(マルコ4:41)」と弟子たちは驚きました。「タリタ・クム」と死んだ12歳の少女をよみがえらせたとき、人々は口もきけないほど驚きました。

(2)確信に満ちた方

「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。(マルコ1:17)」「わたしの心だ。きよくなれ(マルコ1:41)」「人の子は安息日の主です。(ルカ6:5)」「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。(ヨハネ8:58)」「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)」など,イエス様は、実に確信に満ちておられ、確信に満ちて人々を癒し、安息日を制定された主であると宣言し、「わたしはある」(エゴー・エイミー)と語り、わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできないと断言されました。

2 弟子の告白

(1)ナタナエルの告白

ヨハネ1:49「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

(2)ペテロの告白

ヨハネ6:68,69「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者である御信じ、また知っています。」。

(3)トマスの告白

トマスは、疑い深い人で、弟子たちが復活のイエス様にお会いしたと語るのを聞き、私はイエス様の手の傷跡を見、脇腹の傷に手を入れて見なければ信じない」と言っていたのですが、彼も、復活のイエス様にお会いした時、「私の主、私の神よ」と告白しました。

3 イエスという名

イエスという名は、歴史の中で、ガリラヤのナザレ出身のひとりの人に私たちの目を集中させます。また、キリストという称号は、ユダヤ人の歴史の中で、神が預言者たちを通して、約束してこられた救い主は、このお方であるという信仰の告白であり、また、「我らの主」と加えられていることは、ヘブライ語のヤハウェを表す「主」という言葉が、キリストと呼ばれて一人の人イエスにかぶせられていることに気づきます。初代教会の最も短い信仰告白は、「イエスは主です。」というものでした。(ローマ10:9、Ⅰコリント12:3、Ⅱコリント4:5、ピリピ2:11)

4 おわりに

そこに「われらの」とあるのは、個人的な親しい関係、私たちがキリストに接ぎ木され、「キリストのもの」となり、悲しみも死も、病気も災いも越えて、この方と一つであるという証の言葉でもあります。

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