人ではなく,イエスさまにつながる(ヨハネの福音書4章39節~45節)

1 自分で聞いて信じること

サマリヤ人は,サマリヤの女の,「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」という証言によってイエスさまを信じました。しかし,その後,サマリヤ人の信仰は大きく前進しました。
自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったからです。サマリヤ人の信仰は,は人をとおしてではなく,直接イエスさまとつながる信仰へと成長しました。
私たちの信仰生活でもイエスさまに直接つながり,自分でイエスさまから聞いて信じる信仰はとても大切です。7月に礼拝で,「主とともに歩む」という曲を賛美しました。歌詞に「一足,一足,主にすがりて」という言葉があります。一足,一足,主にすがって,イエスさまに直接導かれていくことが私たちの幸いな道なのです。

2 信仰の目をもって人を見ること

イエスさまは,サマリヤを去ってガリラヤにいかれました。そこは,イエスさまの故郷にあたります。イエスさまは,「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさって」いました。故郷の人々の目には宣教する前,子どもだったイエスさまの姿,大工をしていたイエスさまの姿が焼き付いていているからです。これまでもっていた人としてのイエスさまの思い出が信仰の目をもってイエスさまを見るのを邪魔したのです。私たちは,信仰の目をもってイエスさまを見ることが大切です。
日本は,イエスさまの故郷ではありません。しかし,日本人の私たちも信仰の目をもってイエスさまを見ることはとても大切です。人は,みな罪人です。弱い人間です。失敗ばかりの人間です。しかし,人がイエスさまを信じるとき,その人の中にイエスさまが住んでくださいます。その人の中にイエスさまがおられます。私たちが信仰をもって人を見るというのは,その人の中におられるイエスさまを見ていく,そして,その人の中におられるイエスさまを信じることです。そうであれば,どのような人でも尊ぶことができます。仕えることができます。へりくだってともに歩むことができます。

3 力を求める弱さの克服

さて,イエスさまがガリラヤに行かれたとき,ガリラヤの人たちはイエスさまを歓迎しました。それは,とてもよいことのように見えます。しかし,ガリラヤの人たちは,イエスさまを信じて,へりくだって歓迎したのではありませんでした。イエスさまの前に自分の罪を認め,へりくだり,イエスさまにすべてを委ねていく信仰ではありません。イエスさまの力を利用して自分の思いを実現したいという高さがあったかったからイエスさまを歓迎したのです。
私たちは,ガリラヤの人を責めることができるでしょうか。同じ心は私の中にもあります。力を求める不信仰の克服法は,「神さまに礼拝し,神さまの前へひれ伏すことです。そして,自分の高さに気づいたらすぐ神さまのもとに帰り,神さまの前にへりくだること」です。

4 おわりに

私たちは,どうしても人にとらわれてしまいます。しかし,私たちは,人ではなく,イエスさまに直接つながる者でありたいと思います。サマリヤの人々が告白したように,イエスさまが本当に世の救い主であるからです。

(2021年8月8日 石原 俊一 兄)

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