良くなりたいか(ヨハネの福音書5章1節~9節)-音声-
1 「良くなりたいのか」と声をかけられるイエスさま
イエスさまは,38年間もベテスダの池に横になっている病人に,「良くなりたいのか」と,声をかけられました。ある聖書学者は,イエスさまのこの質問を愚問といいます。しかし,そう問いかけたイエスさまのお心は次のように,愛にあふれていました。「あまりにもつらい現実の中で,あなたの心は凍ってしまっている。何も感じない,何も求めない心になっている。しかし,あなたの心の奥底には,『よくなりたい』という心があることをわたしは分かっている。その心を再びよみがえらせるのだ。そして,わたしに求めなさい。あなたが望めば,私を信じれば,わたしはあなたを癒やすことができる。私にはあなたを救いたいのだ。」
イエスさまの言葉は,私たちにも語られています。私たちの現実も思うように行かないことばかりです。信仰についてもなかなか前進できません。そうやって時を過ごしているうちに,いつのまにか自分の感情や神さまに求める心を自分の中で封印してしまっているということがあります。しかし,イエスさまは,自分の中に封印している,「いかりや悲しみ,求め」を引き出すだけではく,そこから救い出してくださいます。
2 ありのままの祈り
イエスさまのお言葉で,病人は,眠っていた感情が引き出され,「主よ。私には,水がかきまわされたとき,池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると,もうほかの人が先に降りていくのです。」(7節)と答えました。 堰を切ったように語る病人の言葉。ここには,「主の前に言葉を整えよう」という意図が全くありません。この病人は,心からあふれる言葉をそのまま,そのまま,ありのままイエスさまにぶつけたのです。病人の言葉は,まさに,ありのまま,思いのままの叫びでした。
この病人の答えから,私たちは学びたいと思います。それは,私たちがいつも,自分で自分を整え,誰が聞いてもきれいな言葉で祈る,神さまに向かうくせがついているからです。イエスさまは,私たちの救い主です。ありのままの私の叫び,悲しみ。痛みをすべて受け止めてくださいます。くやしいなら,くやしいまま,いかるならいかるまま,そのままイエスさまにぶつけてもそれを受け止め,そんな私たちをあわれみ,導いてくださるのと信じることが信仰です。
3 イエスさまの言葉どおりに歩みだす
イエスさまは,病人に,「起きて床を上げて歩きなさい。」とおっしゃいました。すると,病人はすぐに治って床を取り上げて歩き出しました。この病人は全くの無力です。人の可能性は0でした。また,病人の癒やしに,ベテスダの池は全く関係していません。池の可能性でもありません。この病人は,100%イエスさまの言葉,イエスさまの可能性で癒やされたのです。
ここで大切な事は,100%イエスさまの可能性に立つということです。すると,ただ,イエスさまのお言葉のとおりに行う,イエスさまのお言葉のとおりに歩くという行動が生まれてきます。「そんなこといわれてもわたしにはできません」と言う言葉を聞くことがあります。そのとおりです。できないのです。「わたしには…」といったら,できません。これが真実です。しかし,イエスさまが「起きなさい」とおっしゃれば,私は起きます。イエスさまが,「床をあげなさい」とおっしゃれば「床を上げます」イエスさまが「歩きなさい」と言えば歩きます。これが信仰です。私たちもイエスさまに言われるがままに歩んでいきましょう。そこから先はイエスさまの世界です。安心して歩き出していきたいと思います。
(2021年8月22日 石原俊一 兄)