ペテロの否認と主イエス(ルカの福音書22章31-34節、54-62節)

1 「遠く離れて」という距離感

最後の晩餐の場面でイエス様は、ペテロに対して「あなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)と励ましの言葉を語りました。試練のリアリティのないペテロは「死であろうと、覚悟はできております」(33節)と語りますが、イエス様は彼に対して3度の否認の予告をしました(34節)。その後、逮捕されたイエス様が尋問を受けるために大祭司の家に連れていかれた時、ペテロは「遠く離れて」ついて行きました(54節)。弟子の中で唯一ついて行けていた彼には「いざとなったら…」という思いもあったかもしれません。しかし「遠く離れて」という距離は、あくまで彼が「自分自信の安全」を確保できる距離。従っている体でも実は条件付きで、都合が悪くなればすぐに引き返せる距離。少なくともそれは、自分の語った言葉(33節)とは程遠い距離。彼はこの時既に、失敗への大きな一歩を踏み出し始めていたのです。

2 弱さを露呈し、罪に陥る時

私達が「弱さ」を露呈したり、罪に陥いったりする時というのは、思っている以上にずっと早くに始まっていることがあります。私達はペテロのように、従っている体で「遠く離れて」ついていってはいないでしょうか。自分の大事なものを確保できる範囲内でのみ従おうとしていないでしょうか。いざと言う時にはキリストを選べると思いながら、実はどちらも選べる場所に身を置いていないでしょうか。そしてそんな自分に無自覚なまま、本当にしたい生き方を選び取れず、むしろ、罪に陥る道を確実に踏み出し始めていることがあるのではないでしょうか。もしそうならば、その行き着く所はペテロと同じです。彼はイエス様の予告通りに3度の否認という大きな失敗を犯してしまいました(56-60節)。

3 イエス様の十字架

しかし、そのような私達の弱さと罪の現実のためにこそイエス様は十字架に向かっていかれました。そして、十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(23章34節)と祈られました。「このイエス様を見よ」と、聖書は私たちに語りかけています。ですから私達も、ペテロと同様に、まずは自分自身の無自覚な罪の現実を悲しみたいと思います。そして、その罪のためにこそイエス様が死んでくださったことを重く受け止め、信じて受け取りたいと思うのです。しかし、それだけではなく、ペテロのためにイエス様が既に祈っておられ、彼が立ち直って、同じ弱さと罪を抱える兄弟姉妹を励ます者となっていくように期待されていたように(34節)、私達もまた、福音を告げ知らせる者となっていくことが願われているのです。このイエス様の祈りと期待に、共に応答してまいりましょう。

(2021年8月29日 永井 創世 師)

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