私に伝えられた信仰② 主は生きておられる(列王記第一17章1節)

0 はじめに

祈祷会で学び始めたサムエル記の「主は生きておられる」というみことばが心に迫り、聖会のメッセージとなりました。預言者サムエルは、停滞していたイスラエルに、悔い改めて神に祈るなら、神様は祈りにこたえてくださると、「生ける神の姿」を見せました。そのサムエルの愛弟子がダビデです。ダビデには、逃亡生活で心が荒れすさんだ時がありましたが、ナバルの妻アビガイルと出会い「主は生きておられる」という信仰が回復しました。

1 ツァレファテのやもめ

「主は生きておられる」と聞きますと、まず、Ⅰ列王記17:1のみことばを思い起こします。エリヤのことばどおり、天は雨を閉ざし、飢饉がやって来ました。神様は、エリヤを、シドンのツァレファテのやもめのもとへと遣わしました。彼女は、エリヤに出会い、「あなたの神、主は生きておられます。」と言います。ところが、長い間、神の祝福を経験しながら、今更のように、「あなたが神の人であり、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました。」と語るのは、エリヤの祈りによって一人息子が息を吹き返した時でした。

2 「主は生きておられる」の用法

① 慣用句として

「主は生きておられる」とは、誓う時に使う慣用句でした(エレミヤ5:2,Ⅰサムエル26:16)。「主は生きておられる」とは、「主に誓って言うが」とか、「絶対に、必ず、本当に」という意味で使われていました。

② 慣れの恐ろしさ

ツァレファテのやもめは、恵みに慣れて無感覚になり、エリヤに食ってかかります。荒野の行軍をするイスラエルの民も、毎朝食べるマナに飽きて、「ああ、肉が食べたい。(民数記11:4,5)」と不平を言いました。

③ 無感覚に使われた例

ナアマン将軍がエリシャのもとにお礼に戻ってきた場面(Ⅱ列王5章)、エリシャは、「私が仕えている主は生きておられます。」とナアマンの贈り物を断りました。すると、しもべゲハジは、「主は生きておられる。」とナアマンを追いかけ贈り物を得るのです。ゲハジに「主は生きておられる」という意識はありません。

3 ダビデの体験・私の体験

ダビデは、アビガイルによって「主は生きておられる」との信仰を回復しました。私は、信仰の先輩たちから、「私の仕える神、主は生きておられる。」という信仰を受け継ぎました。

① 十字架につけられたキリスト

小学5年生のとき参加した聖会で、ヨハネ15:16のみことばとともに、私のために十字架につけられたイエス様のお姿をはっきりと示されました。

② 内住のキリスト

大学二年生の時、一切の罪を悔い改め、手にするすべてのものを神様の手に委ねました時、イエス様が私の心に住み、私の傍らにいつも共にいてくださる大きな恵みに心が躍りました。

③ 祈りとみことばの生活

私が祈り、私が御言葉を求めます時、神様は、祈りにこたえ、また、みことばが私に語り出します。「主は生きておられる」からです。

(木田惠嗣 師)

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